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「大丈夫かよ?」
憔悴しきった俺の顔を見て、侑が言った。
和泉兄さんが進めていたプロジェクトの計画書を読み込むこと三日、俺の頭の中では億単位の数字が渦を巻いていた。昨夜はついに、福沢諭吉に追いかけられる夢を見た。
プロジェクトを立て直す糸口が見つけられずに焦る俺を見兼ねて、真さんが飲みに誘ってくれた。
週末とあって『High & Low』は満席状態で、俺たちは頼まなくても個室に案内された。
「大丈夫に見えるかよ――」
俺はソファに身体を預けて、天を仰いだ。
「計画書は分厚過ぎるし、何回読んでも理解出来ないし! つーか、計画書を何回か読んだくらいで日本の金融を動かせっつーのが無理な話だろ‼」
人生初と言っても過言ではない、高くて分厚い壁にぶち当たっていた。
提携を見直したいと言ってきた企業を説得する方法が見つけられない上に、もう一社からも提携を白紙にと連絡が入った。営業部長の有田さんは連日、相手先に赴いて担当者との面会を申し込んだが、受付嬢に笑顔で断られていた。
「そりゃ、そーだ」
真さんが呟いた。
俺は大きなため息をつくと、身体を起こしてグラスを手に取った。
「真さんの方はどうです?」
「ああ……、正直面白くないな」と、真さんが表情を曇らせた。
「と言うと?」
「充副社長が川原から入手した証拠だけを見ると、どれも黒幕は観光事業に関わっている人間を示すものだ。だが、金の流れが全く掴めない。恐らく、取引に使われたのは架空口座だろう。そこへ、川原と和泉社長が接触した証拠写真と川原の証言だ。和泉社長が充副社長の仕業に見えるように偽装して、金を受け取っていたって流れに変わった。和泉社長なら架空口座の扱いもお手のもんだろ」
「なんだ……それ」と、侑が漏らした。
「それだけ聞いたら、こじらせた兄弟喧嘩でしかないだろ……」
兄弟喧嘩……。
「だよな」と、真さんが言った。
俺たちは三人同時にグラスに口をつけた。少しの沈黙の後、俺がそれを破った。
「なぁ……、和泉兄さんはどうして重要なプロジェクトが大詰めって時に、俺を咲に近づかせて、清水の犯罪を暴かせたと思う?」
「は……?」
「いや、ずっと不思議だったんだよ。こんな大事な時期にこんな危険を冒すなんて、和泉兄さんらしくない。充兄さんにしてもそうだ。いくら和泉兄さんと不仲でも、グループのことを考えたら取締役会で大捕り物なんて、らしくない」
「そうなのか……?」
ドアがノックされて、バーテンダーが追加のビールを運んできた。俺たちは残り少ないグラスの中身を飲み干して、バーテンダーに手渡す。
「らしくない……のか?」と、真さんが話の続きを促した。
「ああ。和泉兄さんは真面目で優しいって、型にはまった優等生タイプの印象を持たれることが多いけど、実際は自己中で気分屋なんだよ。基本的に自分の都合のいいことや楽しいことにしか興味を持たないし、動かない。反対に、自分勝手で協調性がなさそうに思われがちな充兄さんの方が、情を大切にして他人に尽くすし、大切なもののためなら自分が泥をかぶることもいとわないんだよ」
「真逆だから反発しあうってことか」と、侑が言う。
「充副社長とは面識はないが、和泉社長に関しては同感だな。一見、人当たりもいいし穏やかな物言いだが、表情を崩さないから感情が読めないし、常に試されているような緊張感を持たされる」と言って、真さんは俺を見た。
「ぶっちゃけて言えば、俺様野郎だな」
「ぶっ――!」
侑がビールを吹き出しかけて、慌てて手で口を塞いだ。
「えーーーっと……。兄と何かありました?」
俺は興味半分、恐怖半分で聞いた。
真さんは露骨に不機嫌な表情で言った。
「初対面で『きみってロリコンっぽいよね』って言ったんだよ!」
「ぶっ――!」
今度は耐え切れずに、侑が吹き出した。ゴホッゴホッとむせ返る。
「真さん……。彼女との年の差を気にしてるんですか?」
「気にしてねーよ!」
「ははっ! 絶対気にしてますよね」と侑が茶化して言った。
「前は若い彼女が羨ましいだろって自慢してたのに」
侑は九歳年上の彼女、真さんは九歳年下の彼女で、張り合っているようにも見えた。
「俺はな! おっさんになる前にお父さんになりたかったんだよ!」と、真さんは興奮気味に言った。
「おっさんて……誰かに言われたんですか?」
俺は恐る恐る聞いた。
「あいつにちょっかい出してる男……」
真さんが子供のように口をとがらせて言った。
「その男、度胸ありますね」と、侑。
「しつこい男がいるって聞いてたから、威嚇してやろうと思って迎えに行ったんだよ。そしたら、面と向かって『こんなおっさんより俺と付き合ってくださいって』告りやがった」
真さんはグラスに半分残っていたビールを飲み干し、追加を注文した。
「で、彼女は何て?」と、俺は聞いた。
「…………」
真さんは俺たちから視線を逸らして、黙った。
「いや、そこまで話したんなら黙んないでくださいよ」
侑は面白がって笑っていた。
「彼女は何て言ったんですか?」
「『私のおっさんよりいい男になれたら、出直してこい』って……」
「なんだ、のろけじゃないですか」と、侑がつまらなそうな顔になる。
「いい女じゃないですか」と俺が言う。
「お前ら、自分の女に『おっさん』て認められたんだぞ? どこがのろけだよ」
「いや、彼女に言い寄った男にしたら、かなりのダメージですよ? 若さなんて武器にならないって言い切られたんだから」
真さんがあっけにとられた表情で、俺を見た。
「そういう……とりかたもあるか?」
「そういうって……、他にどうとるんですか? 若いだけで中身のない男は必要ないってことでしょう?」
真さんは徐に財布を取り出して、一万円札を一枚テーブルに置いた。
「帰る……」
「えっ?」
「彼女に会いたくなっちゃいました?」と、侑がテーブルに肘をついて、にやけ顔で言った。
「悪いか。俺はお前らと違って可愛い彼女にいつでも会えるからな」
真さんは得意気に言って、ドアの前で振り返った。
「蒼、週末は開けておけ。どうせ出社の予定だろうけど、俺が連絡するまで自宅待機してろ」
「はいっ?」
「じゃあな!」
真さんは部屋を飛び出していった。
「くっそ! 痛いとこついてくれるよ」
侑が苦い顔をして、ビールを飲み干した。
「いつから会ってない?」
「お前と同じくらい?」
「そうか……」
俺は聞こうか迷って、聞くことにした。
「咲とは?」
侑は少し間を置いてから、答えた。
「咲は大丈夫だ。少なくとも、今のお前よりは元気だよ」
「そう……か」
俺も侑も、それ以上咲の話はしなかった。
咲の名前を聞くと、会いたくなる。
咲の名前を口にすると、抱き締めたくなる。
なぁ、咲。
お前も少しは俺を恋しがってるか?
俺と侑は久し振りに記憶をなくすほど、飲んだ――。