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翌朝、店からどうやって帰ったのかは記憶にないのに、咲の夢を見ていたことは覚えていた。
初めて咲を抱いた夜の夢。
俺の腕の中で顔を赤らめて、小さく震える可愛い咲。俺の愛撫に身体を強張らせ、息をするのも忘れてもがく可愛い咲。
夢の中の咲に欲情する自分を戒めるために、俺は冷たいシャワーで頭と身体を冷やした。
身支度を整えて、近所のカフェでコーヒーとサンドイッチを注文していると、真さんから電話がかかってきた。
「はい」
『よう。二日酔いになってないだろうな?』
真さんは楽しい夜を過ごしたようで、いつもよりも声のトーンが高かった。
「おかげさまで」
『俺の家の住所を送るから、一時間以内に来い』
「は?」
自分で思うより声が店内に響き、隣の席で雑誌を広げている女性が俺を見た。
『一時間以内だぞ』
一方的に、通話が切られた。十秒ほどで、メッセージが届いた。真さんの家の住所を確認し、電車の時間を調べようかと思ったが、面倒になってスマホをテーブルに置いた。アルコールで弱った胃に鞭を打って、俺はサンドイッチを詰め込んだ。
カフェを出て、タクシーを捕まえるために大通りまで歩いていると、スーパーのガラス越しにずらりと並ぶイチゴが目に入った。俺は引き寄せられるように、スーパーに入った。
何やってんだ……俺……。
スーパーの袋を見ては、ため息が止まらない。
真さんの電話から四十五分後、俺は『藤川』の表札が掛かった家のインターホンを押した。
真さんの家は俺のマンションからタクシーで三十分ほどの場所で、一軒家だった。
まだ……結婚してないはずだけど……。
『空いてるから入って来い』
インターホンから真さんの声がして、俺は玄関のドアを開けた。
玄関にはメンズの革靴が三足、並んでいた。黒の二足は真さんのものらしく、もう一足は少し年配者向けの茶のもの。
「こっちだ」
真さんが玄関正面のドアから顔を出した。
「お邪魔します……」と言って、俺は靴を脱いで、茶の靴の隣に並べた。
「迷わなかったか?」
「タクシー使ったんで。それより、来客中でしたか?」
「いや、お前に会わせたい人を呼んだんだよ」
会わせたい人……?
リビングに入ると、六十代だろう男性がソファに座っていた。父さんと同じ年くらいに見える。
男性に挨拶する前に、俺は真さんにスーパーの袋を渡した。
「土産か?」と言って、真さんが袋を覗き込む。
「くくくっ――!」
中身を見た真さんが、声を殺して笑った。
「美味そうに並んでたからってだけで、深い意味はないですよ」
そうだよな。
真さんが咲の好きな物を知らないわけがないんだ。
やめておけば良かったと後悔した。
「いや、確かに美味そうだよ。咲に食わせてやりたいよな」
彼女に好物も食わせてやれないなんて、惨めでしかなかった。
「伯父さんも好きだよね? イチゴ」
真さんが男性に聞いた。
伯父さん……?
俺と真さんの様子を見ていた男性が、微笑んだ。
「ああ、好きだよ」
誰かに似て――。
思わず男性の顔を凝視してしまい、目が合った。俺は慌てて頭を下げた。
「初めまして、築島蒼です」
男性は立ち上がって、俺に歩み寄った。
「成瀬明久です。よろしく」と言い、男性は俺に右手を差し出した。
俺も右手を差し出し、柔らかく温かい手を握った。
ん……?
なる……せ……って――。
俺の顔色が変わるのに気が付いて、真さんが言った。
「咲の父親だよ」
なっ――――!
俺は言葉を失った。
春から、驚かされることには慣れてきたはずだったが、これには思考停止に陥るほど驚いた。
まさか、夢に出てくるほど会いたくても会えない女の父親と対面することになるとは……。
「君のことは真から聞いていました。娘がお世話になっているようで……」
成瀬さんがゆっくりと俺の手を離し、言った。
「いえっ。こちらこそ咲さんにはお世話になりまして――」
動揺しながらも、咲を『咲さん』と言えたことにホッとした。
「緊張しないで。実はね、君とは初対面ではないんだよ」
「え?」
「君のお父さんとは面識があってね。君と咲も幼い頃に会っているんだよ」
え……?
俺は真さんの顔を見た。
「初耳だよ」と、真さんは俺の無言の問いに答えた。
「まぁ、座れよ。コーヒー淹れてくるから」
真さんに促されて、俺と成瀬さんはソファに座った。さすがに隣に並ぶ勇気はなくて、俺は成瀬さんの角向かいに腰を下ろした。
「お父さんはお元気かい?」と、成瀬さんが聞いた。
「はい」
「昔、お父さんと仕事をしたことがあってね。君のお母さんも私の妻も元気だった頃は、家族ぐるみでお付き合いさせてもらっていたんだよ」
じゃあ……。
「お兄さんたちもお元気かな?」
「はい」
やっぱり……。
兄さんたちとも面識があったのか。
ん?
じゃあ、兄さんたちも咲と会ったことがある?
母さんが生きていた頃となると俺が五歳より以前だから、和泉兄さんは高校生で、充兄さんは中学生。
もしかして、兄さんたちは咲を覚えてる?
「まさか、君と咲が親しくなるとは……」
成瀬さんがポツリと言った。
俺はその言葉をどう捉えていいものか、返事に困った。そのことに、成瀬さんはすぐに気が付いた。
「否定的な意味ではないよ。咲の相手が君で少し驚いたが、嬉しいくらいだよ」
素直に、嬉しかった。
「蒼、しっかり外堀を固めておけよ」
真さんがカップを三つ、テーブルに置く。
「伯父さんに認められたら、怖いもんなしだろ」
「ははは……。私にそんな影響力はないよ」
「あれ? 家族ぐるみでってことは、蒼はこの家にも来てたのか?」真さんが聞いた。
俺がこの家に?
成瀬さんはコーヒーを一口飲んでから、答えた。
「何回かね」
「この家は咲が生まれ育った家なんだよ」と、真さんが俺に言った。
「咲の母さんが亡くなって、咲は俺の家に預けられたんだけど、伯父さんが東京から引き上げるまでここで暮らしていたんだ。で、俺と咲が東京で暮らすことになって、リノベーションしたんだよ」
なるほど。
「懐かしいことを思い出したよ」と言って、成瀬さんが微笑む。
「最後に君の家族とこの家で過ごした時、咲と君が喧嘩してね」
「なんで?」と真さんが聞いた。
「咲が充くんを気に入ってね。大きくなったら充くんのお嫁さんになるんだって言いだしたんだよ。そしたら、蒼くんが絶対ダメだって怒ったらしい」
咲が充兄さんを……?
俺は記憶にない俺と咲のエピソードに聞き入っていた。
「お前、そんなガキの頃から咲が好きだったのか」と、真さんが茶化す。
「覚えてないですよ……」
「咲を泣かせた君も充くんに叱られて泣き出すし、和泉くんは笑って眺めてるし、咲は充くんにしがみついて放そうとしないしで、私たちも困ってしまったよ……」
成瀬さんは懐かしそうに、寂しそうに目を細めた。
「昔のことは覚えてないですけど……」
自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、すんなりと言葉が出た。
「もう、咲を泣かせたりしません」
他に言い方があったのかもしれない。
『大切にします』とか『幸せにします』とか。
でも、『もう泣かせない』が、今の俺の決意でもあり、願いだった。
「君はお父さんの跡を継ぐのかい?」
そう聞いた成瀬さんの表情から、微笑みは消えていた。
俺は唾を飲み、腕時計を握った。歯を食いしばって成瀬さんの目を見た。
「まだ、わかりません。今は、僕の出来ることをやろうと思います」
成瀬さんは俺の置かれた状況と立場を知っていて、聞いたのだと思った。
試されている……。
「蒼、伯父さんは昔金融関係の仕事をしていたんだよ。経営に携わっていたこともある。今のお前に必要な知識を持ってる」
真さんが穏やかに言った。
「咲は……、知ってるんですか?」と、俺は聞いた。
「伯父さんを呼んだのは俺の判断だ。咲には事後報告しておいたよ」
「昨夜、咲と電話で話したよ」と成瀬さんが言う。
「君の力になって欲しいと言われたよ」
咲――!
今は咲の夢に溺れている時じゃない。
「微力ながら、お手伝いさせてもらおう。ただし、君に金融に関わる才能がないと判断したら、そこで終わりだ」
そう言って俺を見た成瀬さんに、咲の姿が重なった。
「どの分野にも向き不向きがある。やる気だけでなんとかなることとならないことがある。金融に関わるには特有の才能や感性が必要だと、私は思っている。それは、経営も同じだ。私なりに君に可能性があるかを見極めさせてもらうよ」
そうか……。
咲の獣の目は、父親譲りなんだ――。
「僕も、ないものねだりで足掻くつもりはありません。僕に才能があるのかは、僕自身が知りたいところです」
望むところだ。
「潔さは備わっているようだね。では、話を聞こうか」