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Side 慎太郎
久しぶりに取り出してきたハットとジャケットを身につけ、姿見で確認する。よし、格好がついた。
ステッキを持って自分の部屋を出ると、ちょうど葵の間から出てきた松村さんと鉢合わせした。
「あっ、奇遇ですね」
今日は彼と一緒に活動写真を観に行く約束をしていたのだ。
流行りを意識した洋装の俺に対し、彼は今日も懐かしい着物と羽織。ここに来てから、和装以外の松村さんを見たことがない。
「格好いいお召し物ですね。よくお似合いです」
そう褒められ、思わず照れてしまう。
「いやぁ、松村さんこそ似合うんではないですか?」
「僕はこれが好きなんです。明治からずっと着物で」
そう笑って、「行きましょうか」と玄関をくぐった。
「なにで行きます?」
俺が問うと、少し考えてから「馬車はどうですか」と言った。
「えっ、でも高くありません?」
そう。馬車の運賃は高い。もしかしたら俺の足を気遣ってくれてのことなのかもしれないが、さすがに気が引ける。
「路面電車の駅、確か近かったですよね。足がこれなので長い距離は厳しいですが、歩けますよ」
渋るような表情を見せたが、「なら、それで行きましょう。本当に大丈夫ですか?」
大丈夫です、と笑う。
「…ここに来るときも鉄道で?」
「ええ」とうなずく。「実は、戦地から帰ってきて住む場所がなくて困っていたんです。旅館に滞在していたとき、睦石荘の入居者募集の張り紙を見て」
そうなんですね、と彼が相槌を打った。
「松村さんは、ずっと入居していると聞きましたが」
すると、ほんの少しの間があった。
「名字じゃなくていいです。北斗…って呼んでください」
歩きながら、俺は横を見やる。松村さん——否、北斗さんは小さくはにかんだ。
「じゃあ俺も慎太郎で」
それを聞き、ニコリと笑い、そして言った。
「士官学校に入るときに、睦石荘へ来ました。それまでは、静岡のほうで家族と暮らしていて。父の方針で軍に入隊することが決まって、……本当は、大学に行きたかったんですけど」
彼はとても寂しそうな顔をしていた。俺は返す言葉が見つからず、うつむく。革靴の右足が道の砂を擦る音と、下駄が地面を掻く音が重なる。
「浅草まで、ですよね」
駅に着いて北斗さんが訊いてくる。
「そうです」
切符を買い、列車が来るのを待った。
「俺…、陸軍だったんです。シベリアまで行っていたんですけど、銃撃されて入院して。足に後遺症があったので、あっけなく用なしになってしまって…」
列車が出発すると、向かいの席に座る北斗さんにそうこぼす。いつか説明しないとと思っていた。
「そうなんですね。それは大変だったでしょう」
そんな声が走行音に混じって届く。
「僕は海軍の配属でした。でもやりたくなかったんですよ、戦争なんて。親の言いなりだった自分がばかばかしい」
そこで、周りの視線に気づいたのか肩をすくめる。
「…愚痴は、帰ってからお互い話しましょう」
と言って苦笑した。
浅草の駅で降りると、「こっちです」と俺が前を歩いた。北斗さんはゆっくりと歩調を合わせてくれる。
六区は今日もたくさんの人で賑わっている。その様子を見て、
「派手ですな…」
と彼がつぶやいた。どうやら流行にはあまり敏感でないらしい。
「あっ、ここです。今日は…時代劇をやっているようですよ」
演目のようなものが書かれている掲示板を見て、俺らは劇場の中に入った。
「いやあ、面白かったですね」
「そうですね」と北斗さんも笑顔だ。
帰りの列車の中では、「あの女優さんが綺麗だった」「あそこのシーンが可愛らしかった」という話題で盛り上がった。
「また行きたいです」
彼がそう言ってくれて、俺は嬉しくなる。「ぜひ。いつでもお連れしますよ」
北斗さんは、心底喜びに溢れた表情をしていた。
続く