拓真の後に着いて行った先は、レストランと同じフロアにあるバーだった。カウンター席に座った時、目の前に夜景が見える造りになっている。
出迎えてくれた男性スタッフから好きな席へどうぞと促されて、拓真はカウンター席ではなくさらに奥の方にあるボックス席に足を向けた。
私たちは向かい合うようにして椅子に腰を下ろし、それぞれにドリンクを注文する。
少し待った後にグラスが運ばれてきた。それを私が手に取ったタイミングで、拓真は自分のグラスを目の高さに掲げて言った。
「乾杯」
「か、乾杯……」
冷たい一口で唇と喉を湿らせ、私はそっと拓真を見た。少し暗めの照明のおかげで、レストランで向き合っていた時に比べて緊張感はいくらか緩んでいる。
今のうちに話そう――。
私はごくりと生唾を飲み込み、意を決して声を絞り出した。
「レストランでの話の続きだけど……」
「うん」
拓真はテーブルの上に腕を置いて、軽く身を乗り出した。
少しだけ拓真の顔との距離が近くなって、鼓動がとくんと鳴る。張り付きそうになる声を励ましながら、私はグラスに浮かんだ氷に目を落としたまま口を開いた。
「恥ずかしくて、ショックだったの……」
「……恥ずかしくて、ショック?」
拓真はゆっくりと訊き返し、次の私の言葉を待つ。
話そうと思っていたことを、一応は整理してきていたはずだったけれど、改めて拓真を前にしたら頭の中がぐちゃぐちゃになった。改めて言葉を選ぶのは諦めて、私は頭に浮かぶがままぽつぽつと話し出す。拓真の反応が怖くて声が震える。
「覚えているか分からないけど……。拓真君の部屋で初めて体に触れられたあの時。私、あぁいうことをするのは初めてで、だんだん自分が自分じゃなくなっていって、いやらしい姿の自分を好きな人に見られてしまったんだって思ったら、ものすごく恥ずかしくて嫌で、たまらなくなった。初めて見たあなたの男の顔も衝撃的だった。それでもう顔を合わせられないって思って、逃げてしまったの。その後も、自分の気持ちが落ち着くまでは拓真君の顔をまともに見られない、だから会えないって思って、ずっと避けてた。あの頃よりは遥かに大人になった今なら、どうしてあんなことくらいで、って思うよ。だけど、あの時の私はそんな風に思ってしまった。くだらない理由だって思ったでしょ?呆れたでしょ?拓真君を翻弄した理由がそんなことだって知って、腹が立ったよね。あんな風に一方的に逃げて、自分でも最低だと思うもの。あの時の私は自分の気持ちを持て余すばかりで、拓真君がどう感じるかとか全然考えられなかった。あの時素直に全部話していれば、拓真君を長い間悩ませることはなかったって、後悔してる。本当に、本当にごめんなさい……」
拓真はひと言も口を挟むことなく、ただ黙って話を聞いてくれている。
「拓真君を嫌いになったわけじゃなかったの。ただ私が、色んな意味で未熟だっただけ。拓真君は何も悪くなかった。だから」
ここで言葉を切り、私はようやく拓真に真っすぐ視線を当てた。
「もうあの時のことは忘れてください。そして素敵な恋をして、その人と幸せになって」
理路整然とまではいかなかったが、拓真に話すべきことはすべて言い切ることができたと思う。これできっと彼の長年の憂いも晴れたはずだ。
「私、帰るね。お金はここに……」
私は財布の中からお札を取り出し、テーブルの上に置いた。拓真への想いがこぼれ落ちてしまう前にと、ソファから立ち上がる。
「待って、碧ちゃん」
拓真が慌てて立ち上がった。
「お願いだ。もう少しここにいて。俺の話も聞いてほしい」
懇願するような拓真の言葉に私はためらった。しかし重ねて強く引き留められ、結局ソファに座り直す。
彼は安心した顔をして、穏やかな目を私に向けた。
「言いにくかったよね。それなのに話してくれてありがとう。あの時の理由とその時の碧ちゃんの気持ちが分かって、これでやっと前に進めるよ。……でもね、やっぱり俺が悪かったんだなって思った」
私は身を乗り出しながら首を横に振る。
「違う。拓真君は全然悪くない。私、さっきそう言ったでしょ」
「いや、やっぱり俺のせいだよ」
拓真は組んだ手の上に顎を乗せ、眉間にしわを寄せた。
「自分では碧ちゃんの気持ちを大事にしていたつもりだったけど、そうじゃなかったんだね。あの時の俺、がっついていたつもりはなかったけど、結果的にはそうなってしまってたんだな。碧ちゃんのことが大好きで大切で、でもキスだけじゃ足りなくなって、君に触れたくて、早く自分のモノにしたくなって……。一体何を焦っていたんだろうな。碧ちゃんの初めてを嫌なものにしてしまってごめん」
「謝らないで。何度も言うけど、本当に拓真君のせいじゃないから。私の気持ちの問題だったの」
「うん。それでもやっぱり、ごめん」
「拓真君、もういいから」
私は微笑んだ。
最初はこの再会を嬉しいと思えなかった。けれど今は、再び拓真に会うことができて良かったと思っている。こうやって彼と話すことができたおかげでようやく贖罪がすみ、心が軽くなった気がしている。
ただ一つ予想外だったのは、拓真を好きだという気持ちを改めて認識してしまったことだ。彼が私に好意を向けてくれていることは感じるが、それは前にも思ったように、私が抱いている気持ちとは別物だろう。だから期待はしていない。彼への想いを隠しておこうと思っていたが、今はむしろ気持ちを打ち明けようかと考えている。そして、その恋心を木っ端みじんに砕いてもらうことで、今度こそ本当に前に進むことができるのではないかと思うのだ。なんにせよ、それは太田との別れ話を済ませてからだ。
「明日からはまた、同僚としてよろしくお願いします。そう言えば、出張もあるんだったね。まさか拓真君も一緒だなんて思ってなかったから、焦ったよ。行く予定の支社から上がって来る書類って、毎回不備が多いの。だから……」
気持ちを切り替えようと思い、仕事の話を持ち出そうとしたが、拓真に遮られた。
「聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
軽い口調で訊ねられたから、私も軽く答えた。その後に続くのは、仕事や会社の話だと思ったのだ。しかし拓真が続けたのは、全く別のことだった。
「さっきの話だけど、俺のことが嫌いになったわけじゃなかった、って言ってたよね。それなら……」
拓真は言葉を切り、私を見つめた。
「今はどう思ってる?もしも今、改めて交際を申し込んだら君は頷いてくれるのかな」
「え?」
私は目を瞬かせながら拓真を見つめた。その真剣な顔から目を逸らせなくなる。
「俺は君が好きだよ。あの後まったく恋愛をしなかったとは言わない。だけどなかなか続かなくてね。どうしてなんだろうと思っていたんだけど、最後につき合った人から言われてはじめて気がついた。『あなたが見ているのは、私じゃない誰かだ』って。そう言われて腑に落ちたんだよね。もう二度と会えないと思いながらも、俺は結局君を忘れられないでいたんだな、って」
穏やかな声で話す彼の言葉のせいか、鼓動がうるさいほどに鳴っている。
「碧ちゃん、さおりさんと連絡取ってたんだよね?」
「えぇ。たまに、だけど」
「さおりさんって、今もフリーカメラマンやってるでしょ。去年だったかな、こっちの友達の結婚式に招待された時に、さおりさんに会ったんだ。仕事の依頼を受けたんだって言ってた。その時に少しだけ話す時間があってね。碧ちゃんが今どこで働いているのかを教えてもらったんだ」
「そんなこと、さおりさんから今までひと言も聞いてない……」
「俺が口留めしてたからだと思う。約束を守ってくれたんだね。それで俺、碧ちゃんがここで働いていることを知ったんだ。彼女、うちの企画部にも出入りしてるんだろ?」
「そうね……」
大学を卒業してから実はしばらくの間、さおりとは疎遠になっていた。しかし数年前のある時社内で偶然会い、それから再び連絡を取り合うようになったのだった。
「それでね。色々あって、ここへの転職を決めたんだ」
私は呆気にとられて拓真を見た。「色々あって」の「色々」も気にはなったが、それ以上に私の心を捉えたのが……。
彼がうちの会社に来たのは私がいたからということ?
「そんな……。自分の生活をがらりと変えてまで……。さおりさんに今の連絡先や住所を聞いて、電話するとか部屋を訪ねるとかは考えなかったの?」
彼は私の疑問にあっさりと答えた。
「電話は出ないだろうと思ったし、アパートだって直接訪ねたところで会ってはもらえないだろうと思った。きっとそうだったんじゃない?」
私は言葉に詰まった。確かに、と思う。拓真の連絡先はまだ携帯に残ってはいるが、電話がかかってきたとしても出なかっただろう。彼が部屋を訪ねて来たとしても会わなかったはずだ。だって、彼はあの時のことを怒っていると思っていたから。
「だからこの会社に来た。碧ちゃんに会えるように。こんなのはストーカーみたいだっていう自覚はあるよ。俺、自分では淡白な方だと思っていたんだけど、君に関してはそうじゃないみたいだ」
拓真は苦笑した。
「話がそれたね。俺、碧ちゃんが今太田さんと付き合っていることは知っていたよ。君には話していなかったけど、実は歓迎会の時に、太田さんの方から言ってきたんだよ。ここだけの話って言ってね。どうしてわざわざ俺に、と思ったけどね。俺と君の関係を知っていたわけではないようだったから、俺が独身と分かって牽制をかけてきたのかな。とにかくそれを聞いた俺は、君が幸せならこのまま身を引こうと思っていた。だけど俺には、君が幸せそうには見えなかった。だからもしもまだ、俺への気持ちが残っているのなら、太田さんと別れて俺を選んでほしい。あの頃以上に君を大切にする。もう一度俺と付き合ってくれないか」
「私……」
声が喉に張り付く。本当はすぐにでも頷きたい。だけど、私はまだ太田の彼女なのだという現実がそれを止めた。
言葉を探して視線をさ迷わせている私に、拓真は真摯な目を向ける。
「今の気持ちを正直に話してくれないか。そしてもし答えがノーなら、はっきりと振ってほしい。それで今度こそきっぱりと諦める。君を追いかけるようなことはしないから」
彼の言葉に胸の奥にこみ上げるものを感じる。私はかすれた声で話し出した。
「あんな風に拓真君から逃げてしまったこと、後悔してた。ほんとはね、あの後時間がたってしまったけど、電話したの。正直に話して謝ろう、あなたを好きな気持ちは変わらないことを伝えようって思った。でも、電話はつながらなかった。だから勇気を出して部屋まで行った。だけどもう空っぽだった。春だったから、あぁ、就職でどこかに引っ越したんだなって思った。自業自得だって悔やみながら、拓真君のこと、早く忘れなきゃと思い続けた。やっと次の恋を探そうって思えるようになって、その時私を好きだと言ってくれたのが太田さんだったの。私もう二十六だし、いつまでも昔のことを引きずってちゃいけない、前に進まなきゃ、って思ってたから、彼と付き合い出した。だけど色んなことがあって、もう別れたいって思っているの。そのことは、彼にはまだ伝えていない。だからまだ、うんとは言えなくて……」
私は膝の上で両手を握り、おずおずと顔を上げた。
「もう少しだけ、私のことを待っていてもらえるでしょうか」
「それはイエスってこと?」
拓真の問いに私は頷く。
「分かった、待つよ」
彼のその言葉が私を安心感で包む。太田に向き合う勇気をもらえたと思った。
「ありがとう」
そう言って瞬きした途端、涙がこぼれる。
拓真の手が私の頬に伸びた。その指先で伝い落ちる涙をそっと拭い、彼は言った。
「好きだよ」
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