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橘靖竜
#切ない
#長編
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父は、ボロクルが私の拙い采配によって討たれたと聞かされ、烈火のごとく怒ったという。
だが、私も、チャガタイも、罪には問われなかった。
それが、かえってつらかった。
罰せられたなら、まだ楽だったかもしれぬ。
父はオラズムへの親征を決めた。
そして私は、戦場から遠ざけられるように、広大な領地を任された。
信頼なのか。
遠ざけられたのか。
私には、もうわからなかった。
胸の奥に、重い石を抱えたまま、私は草原の日々を過ごした。
やがて父がオラズムの地へ入ると、私を含む息子たちが呼び集められた。
議題は、次のカーンであった。
誰が父の後を継ぐのか。
父は、息子たち自身に意見を述べさせた。
その場で、チャガタイが立ち上がった。
目は血走り、唇は震えていた。
「この者を、カーンにするというのですか」
誰も答えなかった。
チャガタイは私を指さした。
「メルキトの私生児を」
その言葉が放たれた瞬間、幕舎の空気が凍った。
私は何も言わなかった。
言えば、すべてが壊れる気がした。
だが、もう壊れていたのだ。
チャガタイは剣に手をかけた。
父の前で。
兄弟たちの前で。
そして私も悟った。
この男とは、もはや和解できぬ。
たとえ父が生きていようと。
たとえ帝国が一つであろうと。
私とチャガタイの間にある裂け目は、草原よりも広かった。
父は私を呼び、
人払いをさせた。
私は覚悟を決めた。
焚火の火だけが、
ぱちり、と小さく爆ぜる。
夜風は冷たかった。
遠くで馬の鼻を鳴らす音がする。
父は酒杯を置き、
こちらを見ないまま言った。
「ジュチ」
「はい」
「もし――」
そこで言葉が止まる。
父ほどの男が、
言い淀むことなど珍しかった。
「もしチャガタイがお前を殺そうとしたら」
炎が揺れる。
「お前はチャガタイを殺せるか」
私は答えられなかった。
草を渡る風の音だけが、
やけに大きく聞こえる。
殺せるはずがなかった。
あれは弟だ。
幼いころ、
同じ母の乳を飲み、
同じ天幕で眠った。
ともに父の背を追い、
ともに草原を駆けた。
たとえ憎まれていても、
私には――
「……できません」
ようやく絞り出した声は、
自分でも情けないほど弱かった。
父は笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ静かに、
焚火を見つめていた。
「そうか」
その横顔は、
ひどく疲れて見えた。
やがて父は低く呟いた。
「ならば逃げるしかあるまい」
私は顔を上げる。
父はなおも炎を見つめたままだった。
「チャガタイはいつかお前を殺すだろう」
風が吹く。
火の粉が夜へ舞い上がった。
「……私が生きていようが、死んでいようがだ」
父は長く息を吐いた。
「今のお前の窮状は」
「わしが草原で戦ってきた代償よ」
「ジャムカしかり、オン・カンしかり」
「皆、わしの弱みを探した」
「お前は、その一つだったのであろうな」
私は唇を噛んだ。
涙が頬を伝う。
「父上を倣おうとすればするほど」
「草原に絡め取られるのです」
「チャガタイを恨んではおりませぬ」
「私さえいなければ――」
「そう思うあやつの気持ちも」
「わからぬわけではないのです」
父はようやくこちらを見た。
その目は、
世界を征服した男の目ではなかった。
ただ、
息子を案じる父の目だった。
「息子よ、生きよ」
「何かあればスブタイを通じてわしに知らせよ」
「チャガタイは草原の男だ」
「ジャムカが死ぬまでわしに挑み続けたように」
「あれも、お前を殺すまで止まるまい」
私は深く頭を下げた。
「……わかりました、お父さん」
父の肩が、
わずかに震えた気がした。
「あなたの息子であったことが」
「私の誇りでした」
沈黙が落ちる。
焚火だけが静かに燃えていた。
そして父は、
掠れた声で、ただ一言だけ呟いた。
「……すまぬ」
後継者会議の後、
私は領地へ戻るため、
少数の供回りだけを連れて草原を進んでいた。
夜だった。
風が強く、
草がざわざわと波打っていた。
その時だった。
矢が飛んだ。
護衛の一人が馬から落ちる。
続けざまに黒装束の騎兵たちが斬り込んできた。
「伏せろ!」
怒号。
馬の悲鳴。
火花。
私は咄嗟に剣を抜いた。
誰が差し向けたかなど、
考えるまでもなかった。
――おそらく。
いや、
考えぬようにしていただけだ。
乱戦の末、
なんとか襲撃者を退けた。
だが私は腕を深く斬られていた。
傷自体は浅かった。
だが翌日から熱が出た。
身体が焼けるように熱い。
傷口は黒ずみ、
膿んでいた。
刀に毒が塗られていたのだ。
私は生死の境をさまよった。
夢の中で、
父の声を聞いた気がした。
母の泣く声も。
そして、幼いころのチャガタイの笑い声も。
その頃、
チャガタイは父にこう告げていたという。
「ジュチは職務を放棄しております」
「狩りにうつつを抜かし、
召集にも応じませぬ」
父は黙っていたらしい。
だが、
何かを感じ取ったのであろう。
やがて私のもとへ、
父の召喚状が届いた。
私の捕縛を父に命じられた時
チャガタイは静かに笑ったという。
「お待ちしておりました」
そして父に頭を下げた。
「このチャガタイが」
「兄をひっくくってでも、
お連れいたします」
幕舎の空気が凍った。
オゴタイは目を伏せ、
トルイは拳を握ったという。
父だけが、
何も言わなかった。
チャガタイは兵を整えると
すぐさま進発させた
私は永い眠りから覚めると
「……スプタイを呼んでくれ」
天幕の中で、
私は静かに言った。
外では風が鳴っている。
遠くで兵たちの怒号も聞こえた。
チャガタイ軍は、
多分来るだろう。
幕が開き、
スプタイが入ってくる。
「お呼びで」
いつもの落ち着いた声だった。
だがその目は、
すべてを察していた。
私は苦笑する。
「悪いが……バトウのところへ行ってくれ」
「何があっても守ってくれ」
一瞬だけ、
スプタイの表情が止まった。
「……ひょっとして」
私は頷く。
「お別れですか」
「そうだな」
しばらく沈黙が落ちた。
「死より先に、
奴が来そうだ」
その名を口にはしなかった。
だが二人とも理解していた。
スプタイは静かに膝をつく。
「わかりました」
「バトウ様のことは、万事お任せを」
私は目を閉じる。
胸の奥に、
少しだけ安堵が広がった。
あの子だけは、
生きてほしかった。
草原でも、
帝国でもなく。
もっと遠くへ。
誰にも追われぬ場所へ。
「……頼むぞ」
スプタイは深く頭を下げる。
そして立ち上がった。
幕へ向かう直前、
彼は一度だけ振り返る。
「ご武運を」
私は思わず笑った。
「相手は弟だぞ」
「いいえ」
スプタイは静かに答える。
「あなたは今、
運命と戦っておられる」
「なに勝ちますよ」
幕が閉じる。
風の音だけが残った。
夜明け前だった。
草原を埋める騎馬の音で、
兵たちは目を覚ました。
次の瞬間、
チャガタイ軍がジュチの兵舎へなだれ込む。
馬の嘶き。
怒号。
蹴散らされる天幕。
完全武装の騎兵たちが、
次々と陣内へ流れ込んできた。
先頭にいたチャガタイが、
馬上から声を張り上げる。
「カーンの命令により!」
その声は草原全体へ響き渡った。
「ジュチを捕縛する!」
兵たちがどよめく。
「手向かう者は殺す!」
沈黙が落ちた。
皆、
意味を理解できずにいた。
いや、
理解したくなかったのかもしれない。
一部の者たちは、
すでに噂を聞いていたのだろう。
後継者会議での対立。
チャガタイの激怒。
父の召喚。
だが、
大半の者にとっては違った。
今、
初めて理解したのだ。
――帝国が割れた。
偉大なるジンギス・カーンの息子たちが、
ついに互いへ刃を向けたのだと。
ジュチ軍の兵たちは、
誰も動けなかった。
敵は外ではない。
昨日まで同じ旗の下で戦った、
“同胞”だった。
若い兵が震える声で呟く。
「なぜです……」
誰も答えられない。
その時、
静かに幕が開いた。
ジュチだった。
まだ病の色が残る顔で、
それでもまっすぐ歩いてくる。
その姿を見た瞬間、
草原の空気が変わった。
チャガタイ軍は、
砂煙を巻き上げながら現れた。
黒い騎馬の列が、
草原を埋め尽くしていく。
先頭には、
チャガタイがいた。
その目は、
獣のように鋭かった。
私は馬を進める。
供回りたちが止めようとしたが、
手で制した。
そして騎乗のまま、
弟を出迎えた。
「チャガタイ」
私は静かに言った。
「物々しいな」
チャガタイは鼻で笑う。
「ふん」
「お前など兄でも何でもない」
風が吹く。
両軍の間に、
重苦しい沈黙が流れた。
チャガタイはゆっくり剣を抜く。
陽光が刃に鈍く反射した。
「申し開きを私の父上の前でするか」
「それとも――」
剣先がこちらへ向けられる。
「俺に殺されるか」
私は深く息を吐いた。
空は青かった。
幼いころ、
この男と草原を駆けた記憶が脳裏をよぎる。
私は静かに弟を見た。
「草原の男として」
「偉大なるジンギス・カーンの息子として」
風が二人の間を吹き抜ける。
「チャガタイ」
「お前との一騎打ちを所望する」
周囲がざわめいた。
チャガタイの目が細くなる。
私は続ける。
「お前が勝てば」
「おとなしく殺されてやろう」
沈黙。
遠くで馬が鼻を鳴らした。
やがてチャガタイは、
低く笑った。
それは喜びでも嘲りでもなく、
長年胸に溜め込んだ何かが、
ようやく形になったような笑いだった。
「よかろう」
チャガタイは槍を構える。
「ならば草原の掟で決める」
その瞬間、
兄弟ではなくなった。
そこにいたのは、
ただ二人の“草原の男”だった。