テラーノベル
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橘靖竜
#切ない
#長編
草原の風が、乾いた砂を巻き上げていた。
両軍は遠巻きに円を描き、
誰一人として声を発しない。
ただ、二頭の馬だけが、
ゆっくりと互いを睨み合っていた。
ジュチとチャガタイ。
偉大なるカーンの血を継ぐ兄弟。
だが、その目にはもう、
兄弟の情など残ってはいなかった。
「来たか、偽りの長兄」
チャガタイが低く吐き捨てる。
その声には、長年積もった憎悪が滲んでいた。
ジュチは静かに馬上から弟を見つめる。
「……お前は昔から、私を嫌っていたな」
「当然だ」
チャガタイは即答した。
「お前がおらねば、父上も母上も苦しまなかった」
その言葉に、
周囲の空気がさらに冷え込む。
ジュチはわずかに目を伏せた。
だが、次の瞬間には、
静かに剣を抜いていた。
「ならば、草原の掟に従おう」
「勝った方が、生きる」
二頭の馬が同時に駆けた。
土煙が爆ぜる。
刹那――
鋼が激突した。
ギィン!!
凄まじい衝撃。
互いの剣が火花を散らし、
馬がすれ違う。
再び旋回。
再び激突。
チャガタイの剣は重かった。
力任せではない。
実戦で鍛え抜かれた殺意そのものだった。
「死ねぇ!!」
怒号と共に振り下ろされる一撃。
ジュチは受け流すが、
その瞬間、
左肩に鋭い熱が走った。
「……っ!」
毒。
チャガタイの刃に塗られていたのだ。
肩から腕へ、
焼けるような熱が広がっていく。
馬上でわずかによろめくジュチを見て、
チャガタイが笑った。
「終わりだ、兄上」
「貴様はここで朽ちる」
ジュチは呼吸を荒げながら、
ゆっくり馬を降りた。
毒が回っている。
長引けば負ける。
それを悟っていた。
「降りるか」
チャガタイもまた馬を降り、
剣を構える。
風が吹いた。
二人の間を、
乾いた草が転がっていく。
そして――
同時に踏み込んだ。
剣戟が草原に響き渡る。
一撃。
二撃。
三撃。
互いに一歩も退かない。
だが毒は確実にジュチの身体を蝕んでいた。
左肩が熱い。
視界が霞む。
呼吸が苦しい。
それでも、
ジュチの目だけは死んでいなかった。
(負けられぬ)
父の顔が浮かぶ。
母の顔が浮かぶ。
幼いバトウの顔が浮かぶ。
チャガタイが吠える。
「貴様さえいなければァ!!」
渾身の一撃。
だがその瞬間、
ジュチの身体がわずかに沈んだ。
剣を受け流す。
踏み込む。
そして――
鋼が唸った。
ガァン!!
チャガタイの剣が、
宙へ弾き飛ばされる。
誰もが息を呑んだ。
チャガタイ自身が、
何が起きたかわからぬ顔をしていた。
ジュチの切っ先が、
弟の喉元へ静かに突きつけられる。
風だけが吹いていた。
長い沈黙の後、
ジュチは低く言った。
「……勝負あったな」
チャガタイは唇を震わせる。
悔しさか。
憎しみか。
あるいは別の感情か。
だが最後まで、
弟は頭を下げなかった。
ジュチもまた、
剣を引かなかった。
ただ静かに、
荒れ果てた草原を見つめていた。
草原に、二人だけが立っていた。
互いの軍は遠く後方で止まり、
誰一人として近づこうとはしない。
風だけが、
乾いた草を静かに揺らしていた。
先ほどまでの激闘が嘘のようだった。
地には、折れた剣が転がっている。
チャガタイの剣だった。
ジュチは静かに弟を見つめた。
左肩には、毒が回っていた。
傷口は熱を帯び、
呼吸をするたび鈍い痛みが走る。
それでも彼は、
最後まで膝をつかなかった。
「チャガタイ……」
低い声だった。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ、どこまでも深い疲労だけがあった。
「私は、お前にとって――」
「そこまで忌み嫌う兄であったか」
チャガタイは答えない。
唇を強く結び、
ただ兄を睨み返していた。
ジュチは小さく目を伏せ、
かすかに笑った。
「母上の苦しみを……」
「お前は本当に理解しようとしたことがあるか」
風が吹く。
遠くで馬が鳴いた。
チャガタイの眉がわずかに動く。
だが、それでも何も言わない。
ジュチは空を見上げた。
どこまでも広い、
草原の空だった。
「父上は、私に言われた」
静かな声だった。
「――お前から逃げろ、と」
その瞬間、
チャガタイの目が揺れた。
「それがどういう意味か……」
「お前には分かるか」
沈黙が落ちる。
長かった。
あまりにも長かった。
やがてジュチは、
ゆっくりと剣を鞘へ収めた。
「カーンは、オゴタイのものだ」
その言葉に、
チャガタイは顔を上げる。
「私は、もう父のもとには戻らぬ」
ジュチは背を向けた。
ゆっくりと馬へ歩いていく。
左肩を押さえるその姿は、
先ほどまで勝者として立っていた男には見えなかった。
ただ、
どこまでも疲れ果てた一人の男だった。
馬に手をかける。
そして最後に、
一度だけ振り返った。
夕陽が、その横顔を赤く染めていた。
「……さらばだ」
「達者で暮らせ」
ジュチは馬を進めた。
風が草原を渡る。
チャガタイは、
最後まで動かなかった。
ただ黙って、
遠ざかっていく兄の背を見つめていた。
――その後、
帝国内には箝口令が敷かれた。
ジュチは病死。
そう発表された。
誰も真実を語らなかった。
語れなかった。
広大な西方の領土は、
その嫡子幼きバトウへ引き継がれた。
そしてチャガタイは、
父より次のカーンがオゴタイであると知らされる。
彼は静かに頭を下げ、
「父上の御意に従います」
そうだけ答えた。
反論はなかった。
怒声もなかった。
そのままチャガタイは、
自らの領地へ戻っていった。
草原の風だけが、
すべてを知っていた。
雪が降っていた。
見知らぬ北の大地。
草原とは違う、重く冷たい風が吹いている。
私は馬上から、白く煙る空を見上げていた。
西へ。
さらに西へ。
かつて父と夢見たように、世界の果てを目指して旅を続けた。
その道中、ひとりの少年と出会った。
まだ若く、粗削りだったが、その瞳には異様な光が宿っていた。
後に死闘を繰り広げることになる少年。
「優しいだけでは誰も何も救えぬぞ」
彼にそんなことを言った気がする
短い同行。
短い別れ。
そして私はさらに北へ向かった。
そこには、荒れ果てた大地があった。
雪に閉ざされ、貧しく、争いばかりが続く辺境。
だが、一人の男がそこを変えようとしていた。
北の部族をまとめ、
新たな国を築こうとする若き王。
アルドリック・ヴァルガルド。
王は玉座ではなく、地図の前に立っていた。
まだ若い。
だがその瞳には、飢えた狼のような野心が宿っていた。
傍らには、狼を模した鎧を纏う男が控えている。
その姿を見た瞬間、
ジュチはなぜだか懐かしさを覚えた。
――父によく似ていたのだ。
王は振り返る。
「ゼイオンといったか、噂は聞いておる」
私は静かに頭を下げた。
「はっ」
王は再び地図へ目を向けた。
「我が国は他国に比べ大きく遅れておる」
「貴族は争い、軍は弱く、民は疲弊している」
雪が窓を叩く。
若き王は低く続けた。
「……そなたなら、どれほどで変えられる?」
しばし沈黙が落ちた。
やがて私は、静かに地図へ歩み寄る。
そして北方の大地へ手を置いた。
「三年」
王の眉がわずかに動く。
「三年時をいただければ――」
私は静かに言った。
「大陸随一の国を、王にお目にかけて御覧に入れましょう」
静寂。
次の瞬間。
若き王は笑った。
獣のように。
飢えた王の笑みだった。
その瞬間だった。
後に世界を震わせる帝国の歯車が、
静かに回り始めたのは。
私は雪降る窓の外を見る。
遠い草原を思い出していた。
父。
母。
弟たち。
もう戻ることはない。
ならば――
この地で、新たな夢を見るしかない。
「ククス・ゼイオン」
それが、私の新しい名だった。
エピローグ
老いたジンギス・カーンは、
静かに死を待っていた。
天幕の外では、
夜風が草を揺らしている。
かつて世界を震わせた覇王も、
今は痩せ細った老人に過ぎなかった。
その夜、
幼いバトウは祖父に呼ばれた。
薄暗い天幕の中。
薬草の匂いが漂う。
バトウは静かに膝をついた。
「……近う寄れ」
かすれた声だった。
バトウがそばへ進むと、
テムジンはゆっくりと目を開いた。
濁った瞳だった。
だがその奥には、
なお狼のような光が残っていた。
長い沈黙の後、
老人は低く呟く。
「……お前の父は、死んではおらぬ」
バトウの目が見開かれた。
誰もが、
ジュチは病で死んだと言っていた。
だが――違う。
「西へ行った」
「なぜ……」
幼い声が震える。
テムジンはすぐには答えなかった。
深く、
重い沈黙が落ちる。
やがて老人は苦しげに目を閉じた。
「儂は……」
その声は、
覇王のものではなかった。
「自分の息子を……」
「自分の帝国から守れなかった」
風が鳴る。
天幕が小さく揺れた。
「お前から父を奪ったのは儂じゃ」
「儂は帝国を選んだ」
かすれた声だった。
だがその言葉には、
世界を征服した英雄ではなく、
一人の父の後悔が滲んでいた。
「……許されぬことだ」
バトウは黙って聞いていた。
泣きもしない。
叫びもしない。
ただ静かに、
祖父の言葉を胸に刻み込んでいた。
老人は最後の力を振り絞るように、
ゆっくりと孫を見る。
「すまなかった」
その一言だけだった。
バトウは深く頭を下げる。
そして静かに立ち上がり、
天幕を後にした。
外では雪が降っていた。
白い風の中、
一人の男が待っていた。
スプタイだった。
将軍は無言で少年を見る。
「……カーンは何と」
バトウはしばらく答えなかった。
降り積もる雪を見つめながら、
静かに息を吐く。
「いや……何でもない」
だがその瞳には、
先ほどまでなかった光が宿っていた。
やがて少年は、
ゆっくりとスプタイを見上げる。
「スプタイ」
「はっ」
「調べてほしいことがある」
将軍の目が細められる。
だが彼は何も問わなかった。
ただ静かに頭を垂れる。
「御意に」
雪は降り続いていた。
草原の王は去ろうとしていた。
だがその血は、
なお世界を震わせ続ける。
その時、
まだ誰も知らなかった。
後に世界を恐怖に陥れる新たな王が、
静かに歩き始めていたことを。
fin
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