第121話 眠れない膜
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【異世界・転移した学園/体育館・深夜】
夜の体育館は、音が少なかった。
泣き声はまだどこかに残っている。
けれどそれは、昼みたいに爆発する泣き方じゃない。
毛布の中でこらえる音。鼻をすする音。震える息。
眠れている子もいる。
疲れ切って、倒れるように眠っている。
でも、眠れない子の方が多い気がした。
目を開けたまま天井を見つめる子。
スマホの黒い画面を握りしめたまま指だけ動かしている子。
何かを言いたいのに、言えば壊れるから黙っている子。
先生たちは交代で見回り、声をかけ、毛布を直し、顔色を確かめる。
「大丈夫」
「水ある?」
「寒くない?」
その言葉が何度も繰り返される。祈りみたいに。
体育館の外では、異世界の夜が深くなっていた。
街灯も車もない暗さ。
窓の外の森は、黒い塊のまま動かない。動かないのが怖い。
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【異世界・転移した学園/正門内側・警戒線】
門の内側では、兵士たちが交代を組み直していた。
槍を握る腕が疲れている。視線も疲れている。
それでも、崩れるわけにはいかない。
アデルが短く指示を出す。
「二刻ごとに交代。眠れる者から眠れ。起きている者は、数を数えろ」
その指示は、命令というより“生き残りの手順”だった。
兵士たちは頷き、無言で動く。
倒れそうな仲間の肩を叩き、温かい飲み物を渡し、槍を受け取る。
リオは校舎側の影に寄り、マスクを外さずに壁にもたれた。
目を閉じる。けれど眠れない。
耳が、森の音を拾ってしまう。
(姉ちゃん……)
(今は、守られてる。でも、世界が壊れてる)
イヤーカフは静かだ。
ノノは今夜も解析室で走っているはずだ。
その姿が想像できるほど、皆が追い詰められている。
ヴェルニは門から少し離れた場所で、腕を組んで空気を嗅ぐように立っていた。
眠れない兵士の代わりに立っているようで、本人は眠る気がなさそうだ。
「寝ないの?」
兵士が聞くと、ヴェルニは肩をすくめた。
「俺が寝たら、誰が“嫌な匂い”を先に嗅ぐんだよ」
軽口。だが目は笑っていない。
アデルは一度だけ門の外を見て、すぐ視線を戻した。
消えた兵士のことが頭を離れない。
今夜、その“欠けた一人”が戻ってくるかもしれない。戻らないかもしれない。
戻ってくるなら、普通の姿で戻ってくるとは限らない。
(嫌な予感は、まだ形になっていない)
(だからこそ、怖い)
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【異世界・転移した学園/渡り廊下】
学園の廊下は冷えた。
窓の外は真っ黒。森の匂いが薄く入り込む。
校舎の中なのに、遠くで獣の唸り声が聞こえる気がする。
ハレルは一人、渡り廊下に立っていた。
背中を壁に預け、息を吐く。
体育館の中へ戻れば、先生たちも生徒たちもいる。サキもいる。
ひとりでいるのは危険だ。分かっている。
それでも、今夜は一度だけ、頭を整理したかった。
(何が起きてる)
まず、学園が転移した。
次に、黒い影が増えている。
影は獣に乗り、人に擬態し、会話まで真似る。
そして、サキのスマホの地図アプリ。強制退出。円。
効く。だが代償がある。穴が残り、充電が削れる。
(穴……膜が削れて残る穴)
(塞げるのは、結界の専門家……ダミエだけ)
あの円は、ただの魔術じゃない。
プログラム。文字列。
父が残したものと、同じ匂いがする。
ハレルの胃がきゅっと痛んだ。
不安が、考えれば考えるほど体の内側を締め付ける。
眠れないのは生徒だけじゃない。自分も同じだ。
(父さん)
森の中で、あの男が現れた。
ハレルの父、匠――だと断定できないまま、でも確かに“父の輪郭”だった。
姿を見せて、すぐに去った。
メッセージがサキのスマホに残った。
“危険なものが迫ったら座標を合わせて起動しろ”。
その言葉が今も頭の中で回る。
父に会えたら。
もう一度会えたら。
この状況を変えられる気がする。
少なくとも“次の手”が見える気がする。
でも、会える保証はない。
会えたとしても、すぐ消える。
それが今の父のやり方だ。
(サロゲートとレアは……)
あの二人はプログラム円に飲まれた。
消えた。
終わったわけじゃない。
あいつらは、終わらない。
サロゲート――カイトの体の“代用”。
あの声。無邪気で残酷な声。
レア――光刃で人を裂く女。
あの二人が“戻れない”とは思えない。
戻ってくるなら、どこから?
穴から?
削れた膜の隙間から?
ハレルは息を吸って、吐いた。
胃が痛い。
吐き気がするほど、考えることが多い。
(現実世界は……)
木崎の言葉が耳に残っている。
駅前が森と崖になっている。黒い影が人に取り憑く。
警官は撃てないからテイザーで止めている。
国も動いている。
でも“普通”の手段じゃ追いつかない。
黒い影に対抗できる魔術を使える者は、現実にはいない。
異世界でも、治癒光を攻撃に転用するという“変な解決”で何とかしているだけ。
このまま増え続けたら、どうなる。
世界は割れる。日常が壊れる。
(戻れないのか)
ここから現実へ戻れたら。
リオも、サキも、連れて戻れたら。
現実側で戦える。情報が繋がる。救える人が増える。
でも今のままでは、戻る方法がない。
転移には法則がある。
基本は同じ空間に戻る。
でも今はずれている。
ずれを利用したのがカシウス側だ。
(じゃあ逆に、ずれを“利用して”戻せないのか)
考えるほど、胃が締まる。
でも考えるしかない。
考えないと、夜が怖すぎる。
その時。
胸元の主鍵が、ほんの少し熱を持った。
強い脈じゃない。
でも、合図みたいに一度だけ。
ハレルは顔を上げる。
白いノイズが、廊下の端でふわりと揺れた。
姿は見えない。
でも気配がある。
《……ハレル》
セラの声。
耳の奥に触れる。
今夜はさっきより薄い。
それでも、繋がっている。
「セラ」
ハレルは小さく呼ぶ。
声を出すと、廊下の静けさが壊れそうで、喉を締めたまま言う。
《考えすぎると、あなたが折れます》
セラの声は静かだった。
叱っていない。心配している声だ。
「折れたら……終わる」
ハレルは答える。
「でも、考えないと……守れない」
《守るために考えるのは、正しい》
《でも、全部をあなた一人で背負う必要はありません》
ハレルは唇を噛む。
分かっている。
でも、主鍵は自分にある。
責任から逃げられない。
《あなたが探している“方法”は》
セラが一拍置いて言う。
《ひとつだけ、可能性があります》
ハレルの心臓が跳ねた。
「なに」
《穴です》
《膜が削れた穴は危険です》
《でも、危険だからこそ、座標を通す“細い線”を作れる》
「……戻れる?」
ハレルの声が掠れる。
《今は、まだ》
セラははっきり言った。
《穴は小さすぎる。塞ぐ人も必要です》
《そして、使えば……もっと世界が削れます》
ハレルは目を閉じる。
希望が見えたのに、代償が重い。
セラが続ける。
《だから、夜のうちに決めてください》
《何を守るか》
《何を諦めないか》
ハレルはゆっくり息を吐いた。
胃の痛みは消えない。
でも、焦りの形が少しだけ整う。
「……分かった」
「俺は……諦めない」
《それでいい》
セラの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
その直後、廊下の向こうで足音がした。
サキが探しに来たのかもしれない。
先生かもしれない。
ひとりでいる時間は終わりだ。
ハレルは胸元の主鍵を握り、体育館へ戻る方向へ足を向けた。
夜はまだ長い。
でも、止まるわけにはいかない。






