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グレイス・ベックフォード。今世における私の名だ。
小国ながら肥沃な地を持つアドニス国の三大公爵家の中で、序列一位を賜るベックフォード家の長女として生まれた。
由緒正しい伯爵家の令嬢を母に、王家に連なる者の血を受け継ぐ当主を父に持つ。
王妃を亡くしているこの国では、このグレイスが最も高貴な女ということになるだろう。
どこか他人事に思いながら、私は鏡に映った自身の姿を見据える。
広大な地・グエンタール国の女王スカーレットとは、似ても似つかない女がそこに映る。
シルバーに染まる髪、馴染みのない輪郭、鼻筋、唇のふくらみ。およそ同じパーツで作られているとは思えない程に、違う女だ。
だがしかし、それを認識し、見つめる藍色の瞳だけが、やけに懐かしい。
そっとその目に触れるが如く、鏡に手を伸ばした。
つ、と指先で辿る先の藍色だけが、遠い異国、遥かな時を越えて、唯一、私を繋ぐ。
「……全く、不思議なことね」
独り言ち、噛み締めるように頷いた。
状況は理解できている。
私は暗殺されて、前世の女王としての生を終えた。
そうして、約三十年の時を経て、このアドニス国の公爵令嬢として生まれ変わり、毒に倒れたのをきっかけに、前世の意識が蘇った。
ただ思い出す、とは少し違う。
既に生まれ変わり、生きていた体に、宿るような。魂が呼び醒まされたような。
まさに言葉では到底説明できない状況だ。
もともとそこに自覚のない体が生きていたから、スカーレットの意識の有無とは関係なしに自我がある。感覚、感度、意思、すべてにグレイスが生きていることを感じる。
スカーレットとして感じるよりも先に、グレイスとして体が動くというのは、不可思議な感覚だった。
しかし、だからこそ、わかることがある。
ちょうどその時に、扉がおざなりにノックされた。
返事を待ったか待たないか、間もなくメイドが部屋に入って来る。
目醒めてからもう幾度も体験したことで、もう不敬を説く気にもならない。
慣れてしまったし、何よりこの体が、それを望まない。
入室した数人のメイドが、部屋の掃除に取りかかる。
彼女らの邪魔をしたいわけではないので、掃除の間は別室で待機していてもよいのだが、そうするとまた別の火種を撒いてしまうので、控えることにしている。
せめてもと、ソファの隅に座り、新聞を広げる。
文字を追いながら、隙間を縫うように様子を伺えば、思わずため息が零れそうになる。
部屋の掃除をするメイド達は揃って同じような表情を浮かべている。
まるで感情を知らない人形のような、無表情だ。
実直に務めに励んでいると思えたなら、どれ程に気が楽だっただろうか。
精度の高い結果を出そうとは露程にも思っていないだろう動きだ、見ればわかる。
このような者達が前世の私の周りにいたならば、決してただでは済まさないところだが、グレイスは違うらしい。
何度か苦言を呈そうと思ったが、その度に喉に絡まるように言葉が出なくなる。
きっとこの体はこうして幾度も言葉を呑み込んできたのだろう。
反発を覚えるのは最初の束の間なので、己の意思を通すこともできるのだが、つかえる言葉がまるで懇願しているように思えて、目醒めたばかりの私はつい、そこでやめてしまう。
波風を立てたいわけではない。
そう思っている間に、メイド達が下がっていく。
こうも早く部屋が整うとは思えないが、必要最低限のことは済んでいるらしいので追及はしない。
嘆息しそうになっていると、メイド達と入れ替わるように、扉から鮮やかなブロンドが覗く。
顔を上げると、挨拶もなしに妹のリネットが入室して来た。
小柄で華奢で、可愛らしいという言葉がよく似合う容姿をしていて、恐らく世界中の誰よりもそのことを自覚しているリネットが、にこやかに近づいて来る。
「お姉様、ご機嫌はいかが?」
「……ええ、悪くはないわ」
「まあ。すっかり良くなったのね。お医者様も驚いていたんでしょう? だって、お姉様、毒を飲まれたのですもの。本当だったら生きてはいられない程だったとお聞きしたわ」
「……そうね」
じくり、と胃の奥が痛む気がする。
毒。
この家の住人は誰も彼もが平気で言葉にするが、公爵家の令嬢が毒に倒れたということの重大さを理解しているのだろうか。
まして筆頭として名高いベックフォード家だ。一度、外部に漏れたなら大変な騒ぎになる。
なぜならそれは、これだけの家格、警備を以てして、毒を防げなかったということだからだ。
一刻も早く、どのような経路、経緯で盛られたのか、詳らかにする必要がある。
だが、今現在、それは明らかになっていないと当主である父が言っていた。
騎士団の捜査でも未だ犯人が明らかになっていないということはそれだけ巧妙に盛られたのだということ。身内を疑いたくもないし、政治的な思惑が絡んでいないとも言い切れないが、果たして。
一時、思考が沈んでいくと、引き付けるように、ぱんっ、とリネットが手を打った。
「きっとお姉様は慣れていらっしゃるのね」
「は……?」
「もちろん毒を飲まれたことはないのでしょうけど、でもお姉様はいつも皆に嫌われているもの。きっと慣れていらっしゃるから、耐えられたのね」
呆けて開きそうになる口をどうにか結んでいられたのは、一種の恐怖を覚えたからかもしれない。この女は一体、何を言っているのだろうか。
そして、その恐怖を裏付けるように、にこにこと楽しそうに浮かべていた笑顔から一転、まるで路地に打ち捨てられた塵でも見るような蔑みの表情で、
「どうして元気になってしまったのかしら?」
と、聞いた。
ああ、どうやら私は、今世でも血縁には恵まれなかったらしい。
前世の妹は私を殺し、今世の妹は私が死んでも構わないと言っている。
今こそ嗤えてしまいそうだ。
慣れているから耐えられる?
だから、あの苦しみから生き延びたと?
そのような馬鹿なことが罷り通るなら、今この体に私の意識が呼び醒まされることはなかっただろう。
* * *
自室から出るのはあまり好きではないのだと気がついた。
いらぬ視線に絡まれるのが痛いと思うグレイスの感覚からくるものだが、かと言って床から起き上がれるようになってしばらく経つ。
医者からも、そろそろ身体を動かした方がいいと言われているのだから、やはりそうした方がいいだろう。
継母とリネットの馬車が出て行ったので、私はこれ幸いとばかりに部屋を出た。
庭にでも行こうと廊下を歩いていると、目の前から籠いっぱいに洗濯物を乗せたメイドが二人やってくる。
けらけらと愉しそうにしているのを見るに、山ほど抱えた洗濯物でこちらの姿は見えていないのかもしれない。
咄嗟に廊下の端に寄っていく体の反応に、グレイスが何を苦手としているのかわかるようだ。そしてその理由にも気がついている。
私は自嘲めいた苦笑を零しながら、こちらには一瞥もくれずに歩くメイドとすれ違う。
すると、すれ違いざまに一枚、ひらりと何かが落ちた。
山ほど抱えた洗濯物の一つだった。
私は思わず、足を止めて振り向いた。
「ちょっと待って、落としたわ」
声をかけると、笑い声がぴたり、と止まり、二人揃って振り返る。
床に落ちたそれを見やり、二人が、そのままにやりと笑った。
そうして何が楽しいのか、先程とは明らかに違う声音で、しかし愉しそうに、
「あらお嬢様、拾ってくださって構いませんよ?」
「そうですよ。私達、手が塞がっているんです。さっさと拾って寄越してください」
と、言った。
そして二人は顔を見合わせ、頬を膨らませたかと思えば、ぷっと瞬く間に噴き出して笑う。
馬鹿にされているのだとは、言われずとも十分に伝わった。
けらけら、けらけら。
耳にやたらと響く声を聞きながら、床に落ちた一枚の洗濯物を見たまま動けずにいる。
この世界に目醒めてから、もう幾度も聞いた、音だ。
私を痛めつけ、貶める、音だ。
確かに私は、身内と思っていた妹に暗殺され前世の生を終えた。
裏切りへの驚き、盛られた毒の痛みや苦しみ、そしてついに果てると思った時の怒りや屈辱や後悔は、どれ程の言葉を尽くしても足りはしない。
女王として生き、国を率い、臣下を伴い、どれだけの功績を誇ろうとも、たった一つの悪意に気づけなかったことを、私は恥じている。
そして、何の因果か運命か、再びこの世界に生を受けたにもかかわらず、二度目の毒に見舞われ、ここでも私は誰かの憎しみを買ったのだと知った。
この時の私の絶望は、どれ程に旧知の仲であろうともわかりはしない。心の底から不甲斐なく思っている。が、しかし。
すう、と息を吸い込む。
私を貶めることを許したのは、私自身だけだ。
一体どこの愚か者が、この私にこのような口を利いているのだろうか?
「――服を脱ぎなさい」
「え?」
聞こえなかったのか、聞き返したメイドを見下ろすように目を向けた。
その体がびくり、と怯えたが興味はない。
「服を脱ぎなさい」
「……は、……はは、何を言っているんです?」
私の冷たい瞳に射抜かれてメイド達が一歩後退る。
逃さないように、その一歩を埋めた。
「だってそうでしょう?」
声色を意図的に絞る。
「それは我が家に仕えるメイドに与えたお仕着せだもの。仕事もできない女に許されたものではないわ」
「は、」
「な、何でお嬢様がそんなこと……」
先程とは打って変わって引き攣った頬が、私の立場を問うてくる。
公爵家に仕えるメイドなら、貴族の出かと思っていたがそうではないのだろうか。
自分達の置かれた立場というものを、理解していないらしい。
「どうやら勘違いをしているようね」
メイドの管理は当主ではなく、女主人の仕事だ。
大抵は妻がするもので、この家においてはサンドラがその地位にあると言ってもいいが、サンドラは後妻で、その出自は男爵家。公爵の父と、伯爵家の母を持つグレイスの方が、血筋で言えば格上だ。
そして、この体は知っている。
当主である父が、女主人の権限を、サンドラには与えていないことを。
「お前達の人事権を持つのは、お父様でもお継母様でも、リネットでもなく、――この私よ」
その瞬間、メイド達がようやく自身の置かれた立場を認識したのか、息を呑んで顔を青褪めさせる。
そんな彼女達に、さあ、と促すように声を発し、
「さっさとしてくれるかしら。早くしないと、荷物を纏める時間がなくなるだけだと思うのだけれど」
わざと煽るように小首を傾げて見せる。
ひっと上擦ったメイド達が、真っ青な顔色で頭を下げようとしたのと同時、後方から年嵩の声がする。
「お許しくださいませ、グレイスお嬢様」
振り向けば、メイド長が神妙な顔を浮かべて近づき、落ちた洗濯物を拾い上げ、庇うようにメイド達の前に立つ。
「状況がわかっていて?」
メイド長は微かに震える手で洗濯物を握り締め、けれど、こちらをしかと見つめる。
「……はい。お声をかけるのが遅くなり、誠に申し訳ございません」
「ではこの子達が無礼を働いていたのに、見て見ぬふりをしたということね」
「……面目次第もございません」
そう言って、深々と頭を下げるメイド長を見て、慌てて後ろの二人も頭を下げる。
そのままじっと動かないメイド長に、目を眇めた。
綺麗なお辞儀だ。
目醒めてから、この家のメイド達は不出来な仕事を顧みず、誰も彼もが平然と私を馬鹿にしていた。唯一、最低限の礼節を守っていたのはこのメイド長で、目に余る仕事の出来の時には一人舞い戻り、やり直しをしていた。
これまでのグレイスならば、恐らくそれでよしとしていた。
むしろ、面と向かって傷つけてこないメイド長を、味方だと思っていた節もある。
だが、そうではない。
これはただの野放しと言うのだ。
「メイベル、今日はお前に免じて許すけれど、決して次はないと心得なさい。――丁寧に紹介状を書いてやる程、今の私は優しくなくてよ」
「はい……、グレイスお嬢様」
再び深々と頭を下げたメイド長を見て、私は踵を返し、本来の目的である庭へと向かった。