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それから数日後の、7月中旬の昼下がり。
夏の盛りを迎えようとする空は、昨日までの快晴とは打って変わってどこか重苦しい雲に覆われていた。
午前中にしとしと降っていた雨は上がったものの
空気はまだ湿気を帯びていて
時折、生ぬるい風が窓を叩いた。
湿度が高いせいで、体にまとうシャツが少し肌に貼りつくような不快感があったが
それ以上に、胸の奥で渦巻く期待と不安が俺の呼吸を浅くさせていた。
圭ちゃんを家に呼んだのは、他でもない
早退した日になにがあったか全てを圭ちゃんに打ち明けるためだった。
何度も頭の中でシミュレーションしたけれど、やはり胸のざわつきは収まらない。
暫くすると、インターホンが鳴り
液晶画面に映った圭ちゃんの姿を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
受話器を取ると、いつもの少し乱暴で、けれどどこか安心させるような声が響いた。
「マック買ってきたぞ」
その一言が、張り詰めていた俺の心を、少しだけ緩めてくれた気がした。
ゆっくりと玄関のドアを開けると、白い透明な袋を片手に、圭ちゃんはいつも通りの屈託のない笑顔を浮かべて立っていた。
その笑顔を見るだけで、身体中の力が抜けていくような感覚に襲われた。
「ありがとう。入って」
自然と口から出た言葉は、思ったよりも震えていなかった。
圭ちゃんは慣れた足取りでリビングへと向かい
ダイニングテーブルの上に白い紙袋を置いた。
ふわりと、揚げたてのポテトの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
その匂いは、どこか懐かしい記憶を呼び覚ますようで、俺の心をわずかに和ませた。
テーブルを挟んで向かい合い、二人並んで座るのは、ひどく久しぶりに感じられた。
物理的な距離は近いのに
俺の心の中には、ずっと目に見えない壁が立ちはだかっていたから
こうして何事もなかったかのように食事を囲むのが、まるで夢の中の出来事のように思えた。
食べながら交わす会話は、最初は取り留めのない、軽いものばかりだった。
話題は先日リリースされたばかりの新作ゲームの攻略法だったり
手厳しい担任教師への他愛ない愚痴だったり
迫りくる期末テストの憂鬱な話だったり。
圭ちゃんはフライドポテトを美味しそうに頬張り
時折、大きく口を開けて笑った。
その屈託のない笑顔を見るたびに、俺の心は締め付けられ
同時に、この温かい時間がずっと続けばいいのに、という淡い願いが生まれては消えた。
しかし、俺の手元にあるポテトは半分以上が手つかずのまま、その湯気すらも失いかけていた。
喉の奥に、言葉にならない塊がずっと詰まっているような感覚が息苦しさを募らせていく。
ポテトを一本手に取っては皿に戻し
また手に取っては戻す
そんな意味のない動作を繰り返していた。
「圭ちゃん」
ふいに名前を呼んだ声は、自分でも驚くほど低く、元気がなかった。
まるで、何日も発していなかったかのように乾いた響きがあった。
圭ちゃんは、ちょうど口元に運ぼうとしていたチキンクリスプの動きをぴたりと止め
顔だけで俺の方に振り向いた。
その瞳には、小さな疑問が浮かんでいた。
俺は、手の中でくるくると回していたストローを弄びながら、意を決して口を開いた。
心臓がドクン、と喉の奥で脈打つ。
まるで、無理やり押し込めていた何かが、今にも飛び出してしまいそうなほど激しく。
「この前……俺、早退した日のことなんだけど」
「?、おう」
圭ちゃんの短い返事が、かえって俺の緊張をわずかに緩ませた。
「…あの日、体調悪くてって言ったけど、本当は違ったんだ。あと、本当は圭ちゃんのLINEもリアルタイムで見てた」
喉がカラカラに乾き、息をするのも苦しい。
吐き出す言葉の一つ一つが、胃の底に鉛のように重くのしかかる。
嘘を吐き続けることの重圧と、真実を語る恐怖が、同時に俺を押し潰そうとする。
それでも、一度口を開いてしまえばもう後戻りはできなかった。
このまま嘘を重ねていくことだけは、どうしても耐えられなかった。
「…とりあえず詳しく聞きたいんだけど、あの日なにがあったんだよ?」
圭ちゃんは意外なほど冷静な声でそう聞き返してくれた。
その落ち着いたトーンに、俺はほんの少しだけ息をつくことができた。
怒りや困惑ではなく、ただ純粋な問いかけだけがそこにあった。
その冷静さが、かえって俺の罪悪感を刺激したけれど。
「あの日…圭ちゃんが移動教室の後の昼休みに忘れ物したって教室出て行ったじゃん」
俺は記憶を辿りながら話し始めた。
あの日の情景が、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に蘇る。
「ああ」
圭ちゃんは、俺の言葉を促すように相槌を打つ。
彼の瞳は、俺の言葉をただ静かに待っている。
「そのときにちょうど、杉山さんが来たんだ」
その名前を口にした瞬間
圭ちゃんの眉がぴくり、と小さく動いたのが見えた。
普段、感情を表に出すことが少ない圭ちゃんの珍しい反応だった。
その顔に、一瞬だけ、警戒の色がよぎったように見えた。
「杉山って…まさか花音じゃないよな?」
圭ちゃんの声が、急に冷ややかになり
どこか嫌な予感を覚えたような、低い声だった。
「…その子だよ、紛れもなく圭ちゃんの中学時代の元カノの、杉山さん」
俺の言葉を聞き、圭ちゃんの目が一瞬
大きく見開かれた。
その表情には、驚きと、そして微かな戸惑いが入り混じっていた。
沈黙が数秒、二人の間に流れる。
部屋の空気が、一瞬にして重くなった気がした。
「嫌な予感しかしねぇんだけど…なにかされたのか?」
圭ちゃんの声には、はっきりと警戒の色が滲んでいた。
その問いかけは、俺への心配と
杉山さんへの不信感が入り混じったものだった。
俺の胸の奥で、再び心臓が大きく脈打つ。
この先の言葉をどう伝えるべきか、一瞬躊躇した。
「なにかってほどじゃないけど、空き教室連れていかれて…他にも女子が二人いて…3人に、責められたんだ」
俺は、あの日の情景を思い出しながら必死に言葉を紡いだ。
人気のない廊下
締め切られた空き教室の重苦しい空気
そして、三人分の視線が自分に突き刺さる感覚
あの時の屈辱と恐怖が、再び身体中を駆け巡る。
背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「責められたって、何を?」
圭ちゃんの声に、はっきりとした緊張感が宿った。
彼の眉間に、深い皺が刻まれる。
「俺と圭ちゃんの関係について」
その言葉が口から出た瞬間
圭ちゃんの顔がまるで凍りついたかのように硬直した。
瞳の奥に、怒りのような、困惑のような
複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。
彼の表情は、一瞬でいつもの穏やかさを失った。
俺は一度深く呼吸を置いてから、重い話を続けた。
「どうやら前田が、俺がゲイだってこと…杉山さんたちにも言いふらしてるっぽくて…『私の圭を独占して、あんたが原因で私は圭に振られたんだ』って言われて…」
喉が詰まって、声がかすれる。
圭ちゃんはただじっと黙って俺の話を聞いていた。
その表情は硬く、視線はテーブルの上のポテトに向けられたまま微動だにしなかった。
何を考えているのか、俺には全く分からなかった。
ただ、その沈黙が、さらに俺の不安を煽る。
俺は最後の力を振り絞るように、震える声で言った。
「それで、そのときから圭ちゃんを誑かしてたんじゃないかって…も、もちろんそんなことした覚えは無いし、あの頃から圭ちゃんのことは好きだったけど奪うつもりもなくて……!」
そこまで話し終えた時、圭ちゃんは唐突に
俺の肩を掴んで、自分のほうへと向き直らせた。
その掌の熱が、震えそうになる身体をしっかりと支える。
彼の瞳は、俺を真っ直ぐに見つめていた。
その眼差しは、怒りではなく
「分かってるっつーの、お前そんなことできるような奴じゃねぇだろ」
俺への深い理解と、そして、彼自身への苛立ちのようなものが混じっているように見えた。
圭ちゃんの声は、どこか諦めを含んでいながらも
確かな信頼と温かさを宿していた。
その言葉が、凍りついていた俺の心をゆっくりと溶かしていくようだった。
圭ちゃんの声の響き
その温かい眼差しに、俺の胸は熱くなった。
「圭ちゃん……」
潤んだ瞳で圭ちゃんを見上げると、圭ちゃんは苦虫を噛み潰したような複雑な表情をしていた。
その表情は、俺の苦しみを分かち合っているかのように見えた。
「むしろ俺、お前からそんなふうに思われてたなんて、お前に言われるまで全然気づけなかったんだからよ」
「あっ、あと……その、言いづらいんだけど…圭ちゃん優しいから、俺に情けかけてるだけだって言われて…そうなのかな、ってちょっと思っちゃったんだ」
ポテトの香りが充満する部屋の中で、俺の声はか細く響いた。
その言葉は、俺自身がずっと抱え込んでいた
一番触れられたくない、脆い部分だった。
圭ちゃんの優しさが、時に俺にとっての弱点になる。
彼の無償の優しさを、誰かの悪意によって疑ってしまった自分がひどく情けなかった。
「情け?俺が?」
圭ちゃんの声に、明らかに苛立ちが混じった。
その鋭い響きに、俺は思わずうつむいた。
圭ちゃんの視線が、まるで重圧のように俺の頭上にのしかかる。
彼の声には、はっきりと怒りの感情が滲んでいた。
圭ちゃんがこんな風に感情を露わにするのは珍しい。俺は慌てて顔を上げた。
その目に、怒りの炎が揺らめいているのを見て
俺はさらに言葉を失った。
「ち、違うよ!俺はただ……」
弁解しようとすればするほど、言葉がうまく出てこない。
「あのさ、俺ってそんな信用ないわけ?」
圭ちゃんは少し怒ったような顔でそう言った後
俺の目をじっと見つめてきた。
その真っ直ぐな視線に、俺の心臓はさらに大きく跳ねた。
何も隠せないような
見透かされているような感覚。
彼の瞳は、俺の心の奥底を見通そうとしているかのようにじっと俺を見つめていた。
「…お情けでお前と10年もつるまねぇし、お試しとか言ったりしねぇだろ」
圭ちゃんの言葉が、まるで電流のように俺の身体を駆け抜けた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
それは、彼の言葉の重みと
そこに込められた真摯な気持ちが、ようやく俺の心に深く響いた証拠だった。
瞳の奥が熱くなり、視界がぼやけ始める。
10年もの付き合い。
その年月が、どれほどの重みを持っているか。
俺は、その言葉に、圭ちゃんとの間に築き上げてきた確かな絆を感じた。
「うん……っ」
込み上げてくる感情を抑えきれず、俺はただ、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
「で、まだなんかあんだろ?あの女がそれだけで終わるとは思えねぇ」
圭ちゃんの声は、再びいつもの落ち着きを取り戻していた。
しかし、その瞳の奥には、俺への深い気遣いと
あの杉山さんに対する明確な不快感が宿っているのが見て取れた。
俺は震える唇を噛みしめ、次の言葉を絞り出した。
身体中の力が抜けていくような感覚だった。
「……うん、でも…俺、本音話すと…涙出るから…む、無視して聞いて欲しいんだけどさ」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
こんなにも感情が揺さぶられる自分を、圭ちゃんは呆れるのではないかという不安がよぎった。
こんなに弱々しい自分を、彼はどう思うだろう。
「ちゃんと拭ってやるからゆっくり話せよ」
その声は、ひどく優しいものだった。
俺の目元に手が伸び、親指の腹が優しく涙の跡をなぞる。
その温かさに、さらに涙が溢れそうになる。
彼の優しい触れ方に、俺はたまらなく安心感を覚えた。
「俺、圭ちゃんのこと信じてないわけじゃないんだけど……っ、なんでそんな泣くんだって呆れない……?」
嗚咽が混じり、言葉が途切れ途切れになる。
目の前が涙で滲み、圭ちゃんの顔がぼんやりと霞んで見えた。
彼の前でこんなにも泣きじゃくってしまう自分を、圭ちゃんはきっと理解できないだろう。
「何言ってんだか、お前の気質上仕方ねぇだろ」
圭ちゃんの返事は、俺の予想を裏切るものだった。
呆れるどころか、まるで当然のことのように俺の性質を受け入れている。
その言葉に、堰を切ったように安堵の感情が押し寄せ
俺はまた、重い口を開いた。
彼の言葉は、俺の複雑な感情をただそのまま受け止めてくれる。
それが、どれほど救いになったか。
「金輪際、圭ちゃんには近寄らないでって言われて…情けないけど、肩押されて尻もち着いちゃって」
その時の情けない自分を思い出し、再び羞恥心が込み上げる。
ただ立ち尽くすことしかできなかった自分に、腹が立った。
膝が震え、全身が冷えていく感覚。
「は?それ早く言えよ」
圭ちゃんの声が、わずかに低くなった。
その瞳の奥に、はっきりと怒りの炎が灯ったのが見えた。
普段、滅多に感情を表に出さない圭ちゃんが、ここまで強い感情を示すのは珍しいことだった。
その怒りが、自分ではなく
俺を傷つけた相手に向けられていることに気づき、胸の奥が温かくなった。
圭ちゃんが俺のために怒ってくれている。
「で、でも俺が、ゲイなのは事実だし…もし前田が俺のこと言いふらしてるなら、一緒にいる圭ちゃんまで白い目で見られるし……だから…っ」
言葉が震え、嗚咽が混じる。
顔から熱が引いていくような、全身が冷えていくような感覚に襲われた。
圭ちゃんに迷惑をかけることだけは避けたい
その一心だった。
圭ちゃんの人生に、俺という存在が影を落とすことが何よりも恐ろしかった。
「…俺、っ…圭ちゃんのこと、諦めた方が、いいのかなって……こんな、恋…初めから、なかったことにすれば…って思って」
ぼろぼろと頬を伝う涙が止まらない。
視界が涙で滲んで、圭ちゃんの顔が歪んで見える。
諦める、という言葉が、どれだけ心臓を抉るように痛いか。
それでも、圭ちゃんにこれ以上負担をかけたくない、という気持ちが痛む心を支配していた。
この恋が、最初から存在しなければ、こんな苦しみを味わうこともなかったのに。
そう、何度も何度も、心の奥で繰り返していた。
「それで…圭ちゃんに……『忘れて』って、言ったんだ。そしたら…圭ちゃんに迷惑かけることも、ないし……俺、圭ちゃんに、甘え過ぎてたのかなって、思ってさ…」
絞り出すような声で、全てを打ち明けた。
これまでの全ての苦しみ、葛藤
そして、圭ちゃんへの深い思いが涙とともに溢れ出る。
机の上に滴り落ちる涙が、小さな染みを作っていく。
「お前はそれでよかったのかよ?」