「あの環境下で、取引先からの優奈の評判はどこからも上々だった」
「取引先?」
またまた話が飛んだ。
それに着いていかなければならない優奈の心は、目が回りそうな忙しさだ。
「何年間も黙々と耐えて、手を抜かず真面目に仕事をしてきた証拠だ」
「……いや、それは多分違う」
(退屈な大人に成り下がった自分から目を逸らしていただけ……)
言葉にすることはできず、雅人の言葉を素直に受け取ることはできない。そんな優奈のプライドを踏みつけるのも握り潰すのも雅人の存在。
しかし。
「俺は、そんなお前が欲しい」
奮い立たせ、輝かせるのもまた、彼なのだろう。
「正直な、あんなところに一分一秒でも、お前の時間をくれてやる気はない」
「欲しいって……」
戸惑いながら優奈が聞き返せば、当たり前だろうと言わんばかりに堂々とした声が。
「ああ、欲しいよ。素晴らしい人材として、今すぐに俺は優奈が欲しい」
(……心臓に悪い)
都合の良い部分だけを大きく聴き取り、悔しい程に高鳴る胸の奥。
砕け散った初恋は、破片をそのまま優奈の内に残していたかのようで。
「俺を関わらせてもらえるな?」
「…………うちの子を辞めさせてくださいって乗り込んでくるモンペとか何かのドラマで見たよ……笑いものじゃん」
胸の中で疼く破片は、渇いていたはずの心臓を刺して、血を滴らせているよう。
まるで生き返らせるみたいに。
その熱さを誤魔化すように口を尖らせ拗ねたように言った。
すると雅人は、愉快そうに、ホッとしたように声を出して笑う。
「はは、そんな乗り込み方はしないだろ。あくまで正当防衛だ」
「ええ……?」
「そして正攻法を取る」
よくわからない理屈に、優奈は肩の力が抜けた気がした。再会してから、まるでジェットコースターのような速さで世界が動く。
目の前で微笑む雅人は、昔のままのようで、やはりどこか違っていて。会わないでいた七年の月日を想った。
「……じゃ、じゃあ、今から退職願の書き方でも検索して仕上げちゃおうかな、それがなきゃ話にならないよね」
「まあ、必須でもないけどお前が必要だと思うなら。それよりも寝なくていいのか?」
「はい。決めたら決めたですぐに行動しちゃいたいですから。あとで封筒とか買いに……」
なんと。言葉の途中で、グゥ、と。物凄く間抜けな音がお腹から鳴り響いた。
(いやいやいやいや!!待って、久々にお腹鳴ったかと思えば今なの!? 久々……)
あ、と思わずお腹ではなく口元を押さえた優奈。
空腹感を久々に感じた身体に、どれだけ単純なんだと罵りたい。
恥ずかしくて横を向いたまま固まっていると、クク……っと小さく聞こえた笑い声。
そろりと視線を向ければ、それは……いつも一緒にいた頃の、よく知る無邪気な笑顔。
「今日は俺も会社は休みなんだ」
「……うん」
「仕事には出るけど昼までは時間があるから、どうだ? 優奈の大好きなパンケーキがうまいって評判の店があるんだよ、ちょっと走れば」
「え」
「モーニングもやってるから、食べに行くか?」
即答しない優奈を前に、雅人は「風呂に入りたいなら入っておいで。身支度したいなら待つし」なんて、慣れた様子で言葉にする。
それは、まるで”お風呂に入りたい状態で目覚めた”女性への声掛けに慣れてるみたいで、チクリと胸が痛んで。
「うん、まーくんは入らないでいいの?」
「ああ、俺は帰ったら入るよ」
「……そっか」
熱を持った心臓。痛む心臓。
伝えようとしてくれているものに蓋をする。今は、まだ認めたくないから。