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前回の夜から、ちょうど2週間が経っていた。
俺はいつものように、カウンターの隅で重厚なダーク・ラムを転がしていた。
琥珀色の液体がグラスの縁を伝い、ゆっくりと落ちる。
その「脚」を眺めながら、意識の半分で扉が開く音を待っている自分に気づき、内心で苦笑する。
カラン、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、あの時と同じ、シワひとつないオフィスカジュアルに身を包んだ「お嬢さん」だった。
彼女は店内を見渡すと、俺の姿を見つけ、弾むような足取りで隣の席へとやってきた。
シズカ「天利さん……!
またお会いできて光栄ですわ」
天利「おや、いらっしゃい
……『またいつか』は、案外早く来たね」
俺が目を細めて微笑むと、彼女は少しだけ頬を染め、カウンターに指先を滑らせた。
バーテンダー「お飲み物いかがなさいますか?」
バーテンダーの問いに、彼女は一瞬だけ逡巡するような顔を見せ「『バージン・トニック』をお願いします」と言った。
天利「バージン……
ああ、ノンアルコールの」
俺が少し意外そうに眉を上げると
彼女は恥ずかしそうに、こてんと首を傾げた。
シズカ「……実は、私。アルコール特有の苦味や鼻に抜ける感覚、体が火照る感覚が、どうしても少し苦手でして……」
天利「へぇ、それは意外だ。前回の飲みっぷりは、なかなかのものに見えたけど」
シズカ「あの時は、自分に喝を入れたかったんですの
あの……天利さんに嘘を吐いていたわけではないんですけれど
気合を入れるための、特別な一杯だったといいますか……」
彼女の前に、ライムの香りが爽やかなノンアルコールのグラスが置かれる。
彼女はそれを大切そうに両手で包み、ひとくち口に含むと、ふにゃりと表情を緩めた。
天利「なるほどね
……でも、今夜は『バージン』でいいんだ?
企画の方は、もう気合を入れる必要がなくなったとか」
シズカ「いいえ! その逆ですわ」
彼女は勢いよく俺の方を向き、切れ長の目をキラキラと輝かせた。
シズカ「天利さんに背中を押していただいたおかげで、企画の第一段階、無事に突破いたしました!
憧れの上司からも『あなたを推薦して正解だった』とお言葉をいただけて……」
天利「それはすごい
おめでとう」
シズカ「ありがとうございます
だから、今夜はお祝いのつもりで、1番リラックスできる私の『いつもの』を飲もうって決めていたんです」
そう言って笑う彼女は、前回の「隙のない仔猫」のような緊張感が解け、どこか年相応の幼さを覗かせている。
天利「いいお祝いだ
……おじさんの酒は、お世辞にもリラックスできるような味じゃないからさ
君のその清々しいグラスが、なんだか眩しく見えるよ」
俺は自分の重いラムのグラスを掲げ、彼女の「バージン・トニック」に、音を立てない程度に近づけた。
シズカ「ふふ、眩しいだなんて……
天利さんのお酒も、とても深みがあって素敵に見えますわ」
天利「頑張ったご褒美に、おじさんからも1つ、お祝いをさせてよ」
そう言って俺は、バーテンダーに軽く目配せを送る。
天利「彼女に、とびきり甘くて贅沢なやつを
……アルコールは一滴も入れないで、彼女の『いつもの』よりずっと華やかな、特別な1杯をお願いできるかな」
バーテンダーは黙って頷き、普段は滅多に触れないような、奥の棚にある厳選されたフルーツのシロップや、最高級の無添加グレープジュースを取り出した。
シズカ「えっ、そんな……申し訳ないです!」
天利「いいんだよ
おじさんの退屈しのぎに付き合ってくれた
お礼も兼ねてさ」
カウンターに置かれたのは、繊細なカッティングが施されたクリスタルグラス。
そこには、深い赤紫色の果汁と、細かく砕かれた氷、そして季節のベリーが宝石のように散りばめられた、カクテル以上に美しい1杯があった。
天利「これはね、お酒じゃないけれど、熟成されたブドウの旨みが凝縮されているんだ
……君のこれからの活躍を祝うには、ただの炭酸水じゃ少し寂しいだろう?」
彼女は目を丸くして、その美しさに息を呑んだ。
そっとグラスを手に取り、口に運ぶ。
シズカ「……美味しい
こんなに濃密で、優しい味……
初めてですわ」
天利「それは良かった
……強い意志を持って戦うのもいいけれど
たまにはこうやって、誰かに甘やかされる時間も必要だよ」
俺は自分の重いラムのグラスを揺らし、その芳醇な香りを彼女の甘い果実の香りにそっと添える。
俺の住む世界は、ドロドロに濁っていて、決して彼女を招き入れることはできない。
けれど、このカウンターの数センチの隙間だけは、彼女を「お嬢さん」として精一杯持て成してやりたいという、妙な独占欲が首をもたげていた。
天利「……ゆっくり飲んでいいよ
夜はまだ、始まったばかりだからね」
シズカ「……天利さん」
彼女は、宝石のようなベリーが沈むグラスを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
シズカ「天利さんは、いつもそうやって、誰かを甘やかしてらっしゃるんですの?」
天利「まさか。おじさんは他人に興味がない質なんだ……」
天利「でも……自分でも不思議なんだけどね
君は例外みたいなんだよ……」
俺は嘘偽りなく答え、ラムをひとくち含んだ。
喉を焼く熱さが、彼女に向けた言葉が紛れもない本音であることを証明している気がした。
シズカ「……不思議、ですわね
こんなに素敵な場所を知っていて、こんなに優しい気遣いができる方が、他人に無関心だなんて」
彼女は少しだけ体をこちらへ向け、上目遣いに俺を覗き込んだ。
その瞳には、単なる感謝ではない、もっと根源的な好奇心が灯っている。
シズカ「天利さんは……普段、何をされている方なんですの?」
一瞬の沈黙。
俺はグラスの中の丸い氷を指先で揺らし、カランと小さな音を立てた。
天利「なんだと思う?」
あえて視線は合わせず、独り言のような低さで問い返した。
隣に座る彼女から、微かな緊張が伝わってくる。
天利「経営か、現場か、あるいはただの遊び人か
……おじさんの正体なんて、案外つまらないものだよ」
そう言ってから、俺はゆっくりと顔を向け、彼女の瞳を真正面から捉えた。
期待と不安が混ざったようなその眼差しに、自分の「濁り」を映し出すのが、少しだけ惜しいような気がした。
天利「次に会う時までに、考えておいて
……君の想像力が、おじさんの真実に勝てるか、楽しみにしてるから」
不敵な微笑みではなく、どこまでも穏やかな、慈しむような笑みを向ける。
シズカ「……宿題、ですわね
必ず、天利さんを驚かせるような答えを見つけてきますわ」
彼女は少しいたずらっぽく、けれど力強く頷き、残りのベリーを口に含んだ。
夜の底はまだ深い。
次に会うとき、彼女はどんな顔で俺を見つめるだろうか。
再会を待ち望んでいる自分に、俺はもう、苦笑することさえ忘れていた。