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今夜は、彼女の方が先だった。
バーの重い扉を開けると、いつもの特等席に、ライムの浮いたグラスを前にしたお嬢さんが座っていた。
シズカ「あ、天利さん!」
天利「おや、先を越されたね
お待たせして申し訳ない」
俺が隣の席に腰を下ろすと、彼女はいたずらっぽく目を細めた。
その表情を見て、すぐに思い出す。
前回の「宿題」の期限が来たのだと。
天利「……さて。おじさんの正体、何か答えは出たかな?」
シズカ「ええ、もちろん! この数日間、ずっと考えていましたのよ」
彼女は指を一音ずつ立てるように、自信満々に推測を口にし始めた。
シズカ「第1の予想は……夜のお店のオーナーさん
それも、いくつも店舗を抱えているような
天利さん、このお店のマスターとも阿吽の呼吸ですし、何より立ち振る舞いが手慣れていらっしゃいますもの」
天利「はは、なるほど
……よく言われるよ
まあ、半分は当たりと言えなくもないかな」
組のシノギで息のかかった店はいくつかあるが、本物のオーナーたちが聞いたら腰を抜かすだろう。
シズカ「では、第2の予想……
これは少し失礼かもしれませんけれど、『おぢホス』
現役ホスト、あるいはレジェンド級のOB!」
天利「ホスト? おじさんが、そんな風に見える?」
思わずグラスを口にする手が止まる。
天利「おじさん、そんなにかっこよくないと思うけどなあ。もっとシュッとした若い子がいいでしょ、今の時代は」
実際、息抜きに行く店のキャストたちからは「セクシーだね」なんて揶揄われることもあるし、それなりにモテるが
この清廉な「お嬢さん」の口からその単語が出るとは思わなかった。
シズカ「そんなことありませんわ
天利さんは、いわゆる『イケおじ』の部類だと思いますもの
……私、お店にいたら指名してしまいそうですわ」
天利「……まいったな
そんなこと言われたら、今からでも店を探しに行かなきゃならない」
軽口で返したが、内心では彼女の真っ直ぐな言葉に少しばかりの気恥ずかしさを覚える。
シズカ「私、ホストクラブ行ったことないので
もしもの時はリードしてくださいな」
天利「ならないしやめときな
君みたいなお嬢さんがああいう煌びやかさに惹かれるのはわかるけど
君らが思っているほどいいところじゃないから」
シズカ「はぁい」
シズカ「そして、最後の予想……
これは冗談ですけれど……『詐欺師』!
あまりに優しくて完璧すぎるから
実はどこかの悪い貴族なんじゃないかって」
天利「ははは! 詐欺師、ときたか!」
俺は堪えきれずに声を上げて笑った。
天利「いや、傑作だ
よく見た目が胡散臭いって言われるけどさ……
悪い貴族か……
おじさんには、ちょっと立派すぎる肩書きだね」
笑い声が静かにバーの空気に溶けていく。
俺は空になった喉を湿らすように、新しく届いたラムに口をつけた。
天利「残念
どれも正解とは言えないかな
それに詐欺師扱いは激怒する連中もいるから
冗談でも気をつけて」
天利「そうだね……
強いて言うなら、『清掃業』みたいなものかな?」
シズカ「清掃業……?
お掃除の会社を経営してらっしゃるんですの?」
天利「経営か……
一応、経営もしているけど
現場の清掃じたいにも携わっているよ」
俺は、ラムのグラスに残った最後の一滴をゆっくりと飲み干し空になったグラスをカウンターに置いた。
あながち嘘ではない。
実質、組の運営は俺のワンマン状態だし
昔は命じられればどんな人間も「片付けて」いたし
今でも不始末をした組員、俺や組にとって邪魔な存在の「掃除」は欠かせない。
天利「まあ、おじさんの仕事は、君の素晴らしい企画とは真逆にある、裏方の中の裏方さ
……あちこち埃を被るから、君にはあんまり、近づいてほしくない場所なんだけどね」
シズカ「……それでも」
シズカ「それでも、私……天利さんのこと、もっと知りたいですわ
天利さんは、そうやって誰かのために、ご自分を汚してまでお掃除をしてらっしゃるんですもの」
そう言って彼女は俺の筋と骨ばった手を見つめる。
数えきれないほど血糊で赤黒く染まった冷えてカサついた俺の手に彼女は自らの手を伸ばした。
いや、たまたま触れそうになっただけかもしれないが俺は咄嗟に手を引いてしまい
誤魔化すように俺はまた、歪な愛想笑いを貼り付ける。
シズカ「……それから、どうしてそんなに悲しそうな目で笑うのかも」
天利「……おじさんが、悲しそうだって?」
思わぬ指摘に、俺の指先がわずかに止まる。
シズカ「はい
……おじさまぶって私を甘やかしてくださるけれど、天利さんご自身は、誰にも甘えていらっしゃらないように見えますもの」
天利「……甘える、ね
おじさん、甘え方なんて忘れちゃったよ」
俺は、彼女の熱を帯びた視線から逃げるように、空になったグラスをマスターへ差し出した。
天利「それに、こんなおじさんが甘えたら気色悪いだけでしょ?」
努めておどけた調子で言ったが、視界の端で揺れる彼女の真っ直ぐな瞳が、俺の胸の奥にある、ずっと前に蓋をしたはずの「何か」を掻き乱す。
このままでは、この幼い光に絆(ほだ)されて、本当の汚れまで見せてしまいそうになる。
シズカ「……気色悪くなんてありませんわ
天利さん、仰っていたではありませんか
たまには誰かに甘やかされる時間も必要だって
天利さんだって誰かに甘えても……」
彼女の言葉を遮るように、俺はわざとらしく時計を見た。
天利「夜更かしはお肌の敵だよ、お嬢さん
今日はこのくらいにしておこう」
彼女は名残惜しそうにしながらも、素直に頷いて席を立った。
シズカ「おやすみなさい、天利さん」
天利「おやすみ……
ああ、そうだ!
君の名前、聞いてもいいかな?」
彼女が扉に手をかける直前、俺は我慢できずに呼び止めていた。
天利「毎回、話すのが楽しくて
つい聞くのを忘れちゃっててさ……
いつまでも「お嬢さん」とか「君」って呼ぶのもなんだし……」
彼女は、ふわりと笑って「蓼原 シズカ……です」とだけ言って俺を見つめる。
天利「シズカ……いい名前だね……」
シズカ「ありがとうございます」
しばしの沈黙の後に軽やかな足音が遠ざかり、扉が閉まる。
1人残された俺は、マスターが新しく注いだ酒を眺めながら、自分の右手をじっと見つめた。
天利「……甘える、か」
その言葉を口の中で転がしてみる。
気まぐれに注文したモヒートは、グラスの底で潰されたミントがひどく青臭く、鼻に抜ける清涼感が今の俺にはひどく不釣り合いに感じられた。
ラムの毒気で濁った俺の喉を、彼女の残した潔白な名前が、ざらりと撫でていく。
その苦さが、今は妙に、癖になりそうだった。