テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第2章:二つの道
夜が明け、港町は静まり返っていた。
嵐はすべてを攫い去り、波音だけが瓦礫の街を洗っている。
かつて賑わった桟橋は半分沈み、船は帆も竿も折れて、潮にまみれた木屑になって打ち上げられていた。
カイはひび割れた防波堤に腰を下ろし、足元の海を見下ろした。
自分の名前を知らない生活、港町の残った人々は、彼をただ「名無し」と呼ぶ。
それでも、胸の奥にはひとつだけ確かなものがある――「リシア」という響き。
それが何よりも大切なものだと知っていながら、それがなぜ大切なのかは分からなかった。
潮風が吹き抜け、遠くでカモメが鳴いた。
彼は網の修繕を終えると、波止場で釣れた魚を市場跡に並べる。そこにやってくるのは数えるほどの人だけだ。
日が暮れると、防波堤の先で海を見つめ、夜になる前に古い倉庫へ戻る――それが、嵐の後の彼の日々だった。
ただ、嵐の夜だけは別だった。胸が強く締め付けられるような恐怖に駆られ、必ず灯台近くの避難小屋に籠もった。理由は分からない。けれど、その恐怖はずっと消えなかった。
一方、海から遠く離れた城下町。
石造りの城壁に囲まれたこの町は、港町の嵐のことを遠い噂話のようにしか覚えていない。
朝早くから市場には香辛料と焼きたてのパンの匂いが満ち、通りは商人と客の声で賑わっていた。
その喧騒を抜け、細い路地に入ると薬草の香りが漂ってくる。
小さな薬師の店。その裏庭で、銀髪の少女リシアは摘んだばかりの薬草を水に浸していた。
彼女は薬師の元で育ち、調合や治療を学びながら暮らしていた。名前は拾われたときに与えられた仮のもの。本当の自分の名は知らない。
けれど、一つだけ忘れたことのない名前がある――「カイ」。
その響きが、なぜか温かく、そして切ない。
夜、仕事を終えると、彼女は月明かりの下で城壁を見上げた。
そこに立つと、夢の中で見た海の匂いを感じる気がした。
夢の中の海辺には、いつも同じ少年が立っている。顔も声も、現実に出会ったことはないのに――その存在はあまりにも鮮明だった。
嵐の夜、港町の鐘が遠くで鳴るような幻聴が、時折彼女の耳をかすめることがあった。
理由は分からない。ただ、それを聞くたびに胸がざわつき、視界の端で何かが揺れる気がした。