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「亜美さん……」
ここで沈黙を貫いていた幸人が、そっと口を開いた。
「貴女は狂座の力を借り……妹さんを死に追いやった者を――“殺したい”ですか?」
それは彼女へ促す、決意の程だった。
「…………」
その問いに、亜美は答えあぐねているように見える。
もし彼女が本当に恨みを晴らしたい――間接的に殺す業を背負うだけの覚悟があるなら、狂座を通す事なく見返りもなく、幸人自身が亜美の思いを代行するつもりでいた。
その者さえも知らない、裏の裏まで網羅する狂座の情報収集力を以てすれば、どんな人物であろうと割り出すのは容易。
「私は……」
全ては彼女次第――
「死によって罪を贖わせたい訳じゃないんです」
だが亜美は殺意を根底から否定した。
「あの子を凌辱した者には、法の裁きによる贖罪と、心の底から自分がやった事を悔いて、反省して欲しいんです。もう二度とこんな事を犯さないように。あの子もきっとそれを望むでしょうし……」
犯人には因果応報の死ではなく、あくまで法による裁きであると。
何となく分かっていた事だが、これで亜美が何故狂座にアクセス出来なかったのかが確信出来た。
彼女には決定的に欠けていたのだ。
狂座へのアクセスの鍵は、感情の限界値を超える恨みーー“感情値臨界突破”と、そして何よりも重要で決定的な――“殺意”という感情。
人間以外の生物は捕食――自身の生命維持以外で、無闇に他者の命を奪う事は無い。
不必要に命を奪う――これは人間だけが背負った業。
それをこの間際になっても否定する亜美は、第三者から見れば偽善にしか映らないかもしれない。
だがそれは現在の世に決定的に欠けている、人として最も大切なもの。
幸人はそんな彼女が眩しく見えた。
「だから私は殺しでしか解決しない狂座は認めません。でも……狂座の探索力は借りたい。その為に私の命が必要ならそれでもいい――」
「…………」
そんな亜美の必死の訴えに、幸人は思う――
“二律背反か……”
狂座を認めない気持ちと、狂座にすがりたい気持ち。
犯人を憎む気持ちと、それでも殺しを良しとしない気持ち。
相反する気持ち――矛盾の極致。
つくづく人間とは業深き存在だと、同時に思った。だがそれでも尊い存在であると。
不意に隣に腰掛けた亜美が、すがりつくように口を開いた――
「だから狂座である幸人さんにお願いです。これが貴方の意にそぐわない事も分かります。私をどうしようと構いませんから、この頼みを……聞いてくれませんか?」
つまり殺しは御法度として、妹を死に追いやった犯人を探しだして欲しいと亜美は言っているのだ。
その為には、どんな自己犠牲を払おうとも。
「狂座は……探偵ではありませんよ」
これには流石の幸人も戸惑った。
亜美の願いを叶えてやるのは簡単だ。だが狂座の根底に在るのは『殺し』、それは狂座を冠する者全員が持つ、覆せぬ信念。
一時の情で動く事は、それ即ち自分を否定する事にもなる。
「そこを敢えてお願いします。私にはもう狂座――いえ、幸人さんしか頼れる人が居ないんです」
亜美は引き下がらない。頼りの綱は狂座というより、幸人本人である事を強調しているのだ。
「その為に幸人さんが望む事なら……」
ゆっくりとソファーから立ち上がり、幸人の眼前に立った亜美は、ブラウスのボタンを一つ一つ外していく。
これは実に卑怯な手かもしれない。
屈折した形にはなっても、それでも好きになった人にあげられるのなら、そこに後悔は無い。
だがその手は震えていた。
怖くないといえば嘘になる。それは恥ずかしさよりも――
「幸人……さん?」
“拒絶への恐れ”
素肌を露にする前に、その手が掴まれていた事に亜美は怪訝に思う。
何故なら幸人のその手は、亜美の意向を止めていたに他ならないのだから。
「もっと自分を大切にしてください……」
ソファーから立ち上がっていた幸人は、そうはっきりと否定していた。
「でも……それに私、幸人さんになら良いんです。だから――」
亜美は止めようとする幸人に抗い、その胸元に飛び込もとする。
それは本音だった。幾ら狂座の力を借りたい為の対価とはいえ、幸人だからこそ――幸人だけに許そうとしたのだ。
状況が状況とはいえ――“好きだから”。
好きになったからこその行動。だが幸人は亜美の肩に両手を置き、押し止める。
「……魅力無いですか私? そうですよね……この歳になっても、洒落っ気とかも全然無いですし」
自虐――亜美はてっきり、幸人に受け入れられない事を、己の魅力の無さと思った。
「……貴女はとても魅力的ですよ。正直、私が“表”のみだったら、私から貴女への求愛もあったでしょう」
だが幸人は亜美を魅力的だと明言した上での否定。これも本音だった。
“裏の棲まう者が、表の者と本当の意味で関係を持つ事は許されない”
「……それなら――」
それでも亜美は諦めず、幸人へと食い下がる。
「抱いてください。いえ――幸人さんに抱いて欲しいです」
何時の間にか押し止めていた力は緩まり、二人は抱き合う形となっていた。
しっかり腰へ腕を回している亜美とは裏腹に、幸人は腕を回そうとはしない。
「貴女が本気なのは分かります。ですが、仮にこのまま貴女を抱いたとしても、私には貴女の願いも想いも叶えられそうもありません」
代わりに耳元でそう囁いた。
「どうして……」
受け入れて貰えない。何一つ叶えられそうもない。
自分の想いも、妹の事も。
亜美はその理由が分かりきっている事とはいえ、やりきれない疑問を呟く他なかった。
「もう忘れる事です、狂座の事も。貴女には貴女の幸せがある。この道は救いのない蛇の道。これ以上関わらない方がいい狂座にも――私にも」
幸人のそれは亜美へ促す決別。
手を退かせたかったのだ。亜美に危険が及ぶ前に、裏の闇に踏み入れてしまう前に。
そして――自分に傾いてしまう前に。
“彼女を汚してはならない”
これは一個人として、幸人が亜美にのみ贈る想い。
「でも……それじゃあの子が報われっ――」
代わりに無言でしっかりと亜美を抱き締めていた。
「む……報わっ――あああぁ!!」
その温もりにもう我慢が出来なかった。声にならない嗚咽が絶叫へ変わっていく。
「わぁああぁぁあぁっ――」
亜美は泣いた。その胸の中で憚らず。
受け入れられなかった事に、自分の無力さに絶望している訳でもない。
あの日以来誰にも見せた事のない、堪えていたものが今になって、溶けて流れていく感じがしたのだ。
それは残酷な迄に優しい――哀しい涙。