元貴が退院する日が決まってから、当面の間は、僕と若井の仕事が重ならないようにスケジュールを組んでもらった。家で、元貴を一人にしない為だ。
家に戻ってきた次の日は、早速僕が仕事に向かう日だった。元貴が退院した今、リハビリが必要の為、休養すると公式発表しなければならない。その最終打ち合わせをしに、僕は事務所へ出向いた。 家では、若井が元貴と待っていてくれている。
今朝は、僕は上手く笑えていたと思う。昨日の夜は、あの時間帯特有の、感傷に浸りやすい雰囲気に飲まれてしまっただけだ。大丈夫、これからはまた上手くやれる。
「では、これでいきましょうか。」
スタッフさんが、最終書面を確認して、僕に見せてきた。全てに眼を通し、僕は頷いて返す。
「大森さん、どんな感じですか…?」
「はい、元気にしてますよ。今は、楽曲のこととか、ギターの事なんかは、まだ思い出していませんが、少しずつ、やっていけたらと思ってます。…すみません、時間は、かかりそうです。」
「いえいえ、大森さんの心と体が第一ですから。藤澤さん達も、頼れるところは僕たちに頼ってくださいね、あまり頑張りすぎないで。」
「はい、ありがとうございます。」
僕は、頭を下げて、早々に会議を切り上げて、家へ戻った。発表とその後の対応は、全て事務所がやってくれる算段だ。まだお昼過ぎ、夕方と呼ぶには早すぎるくらいの時間。若井の事だ、上手く元貴の相手をしてくれているとは思うが、なんだかソワソワして落ち着かないので、寄り道をせず家へ向かってもらった。
「ただいまー。」
「「おかえりー。」」
リビングから、声が重なって返ってくる。僕は、ふ、と笑って、部屋へ入った。元貴が、また漢字ドリルと、英語のワークをこなしている。ふとダイニングテーブルを見ると、いくつかの品物が入った買い物袋がドッサリと置かれていた。
「これ、仲村さん?」
「あ、そうそう、色々買ってきてくれたんだ。冷蔵とか冷凍モノは、入れといたよ。」
「ありがと。あーホントだ、お菓子とか、パンとか。カップ麺も。助かるね。」
「上がってってもらおうとしたけど、めっちゃ恐縮されて、帰っちゃった。」
「あー、仲村さんそんな感じだもんね。『いえいえ、タレントさんの家に上がり込むなんて!』とか言いそう。」
「言ってた言ってた。」
若井と一緒に、はは、と笑う。元貴が、グイーッと伸びをして、「おなか空いた」と零した。子どもって、ずっと「おなか空いた」って言うんだな、と僕は少し笑ってしまう。
「事務所で、いくつかお弁当用意してくれてたから、もらってきたよ。みんなで食べよ。」
「やったぁ! 俺一番に選ぶ!」
「オレが選ぶ!」
元貴と若井が競ってお弁当を吟味する。僕は眼を細めてその様子を見た後、ふと思いついて、スマホを触った。
「涼ちゃんどれにする?」
「んー、僕余ったやつでいいよ。」
若井に訊かれ、僕はスマホから眼を離さずに答える。
「涼ちゃんはきのこハンバーグでしょ、きのこ好きじゃん。」
元貴の声に、僕は顔を上げた。若井も、元貴を見ている。
「え? なに?」
「元貴、涼ちゃんのこと、思い出したの?」
「え? 涼ちゃんきのこ好きなんでしょ?」
「…うん、好き…だけど、なんで知ってるの?」
「え、YouTubeで見た。」
ガクッと若井が脱力する。僕も、乾いた笑いで、少しガッカリしてしまった。病室で、YouTubeを観ていたのかな。
「…あんま良くないな、ネットから俺らの情報得るのは。」
「…そうだね、怪しいヤツとかも今は信じちゃいそうだし。」
「『藤澤涼架の過去が、ヤバすぎる』とかも、ははは!」
「やめてよそれ、あはは!」
若井の声真似に、ついつい笑ってしまう。元貴はキョトンとしていたから、『藤澤涼架のヤバすぎる過去三選』みたいな怪しいショート動画は観ていないんだな、とちょっと安心した。
みんなでお弁当を頂いて、それぞれお腹を休めて寛いでいる時に、僕は仕事部屋の印刷機から出てきた紙を手に取っていた。
「どしたの?」
若井が覗き込んでくる。
「…『ノニサクウタ』の歌詞?」
「うん、元貴、この曲好きって言ってたから。歌詞だけでも読んでみたらどうかなって。」
「いいね。見せてみようか。」
「うん。」
「なにー?」
僕たちが寄り集まっているので、元貴も近づいてきた。僕の手の紙を覗き込んで、あ、と言った。
「『ノ ニ サ ク ウ タ』?」
「そう、この前、好きって言ってた曲なんだけど、歌詞見てみる?」
「うーん…漢字、教えてくれる?」
「もちろん!」
元貴は、ニコッと笑うと、僕の手を引いてローテーブルへと向かった。元貴を挟んで、僕と若井が隣に座る。
「今日も、…これは?」
「ぼく。」
「ぼくは、一生…?」
「けんめい。」
「ああ、一生けん命。…これは?」
「がんばった。」
「今日も、ぼくは、一生けん命、がん張った。」
僕と若井に教えられながら、元貴が振り仮名を書いていく。拙い字で、可愛いひらがなが、歌詞に付けられていく。
「に、じ。…あ! 涼ちゃん!」
「え?」
元貴が、顔をパッと明るくさせて、僕を見た。 『虹が架かるように』。 その歌詞の、『架』を指差して、ニコニコしている。
「この歌に、涼ちゃんいるね。」
優しく見つめる、元貴の笑顔。僕は、鼻の奥がツンとして、ヤバい、と焦る。でももう遅くて、涙が一粒零れてしまった。
「…涼ちゃん、大丈夫?」
元貴が、心配そうに、僕の頭を撫でる。若井が、ふ、と笑って、同じように元貴の頭を撫でた。
「元貴、これは、嬉しくて泣いてんだよ。だから、大丈夫。」
「嬉しくて泣くの? なんで?」
若井が微笑んだまま、元貴に言った。
「大人だから。」
僕も、涙を拭いて、元貴に笑いかけた。元貴は、きょとんとしていたが、僕の笑顔に安心したのか、少し微笑むと、また歌詞の振り仮名書きに戻っていった。
「救いに来た…ヒーロー、だって。これは、若井かな。」
「え?」
「だって、ヒーローの滉斗なんでしょ?」
「ああ…! んでもこれは、元貴の作った曲だから、このヒーローは元貴でしょ。」
「オレが…作った…。」
「そうだよ、だから元貴だよ。」
元貴が、最後まで振り仮名を書いた紙を両手で持って、何度も何度も読み返す。僕は立ち上がって、若井と僕にはコーヒーを、元貴にはコーラをコップに注いだ。
「…この、『君』って誰だろ。」
「ん?」
「だってほら、『あなた』もあるし、『みんな』…は多分いっぱいの人でしょ…。なんで『君』と『あなた』があるの?」
「お、俺に聞かれても…作ったの元貴だし。涼ちゃん、わかる?」
「え…いやぁ…そこは訊いたことないかも。なんか、国語の授業みたいだよね。『君』と『あなた』の違いは何か、ってさ。」
飲み物を運びながら、僕はそう言った。
「…元貴はさ、誰だと思うの?」
コーラをローテーブルに置いて、語りかける。
「うーん…。…わかんない。」
「そっか。…偉いね、ちゃんと歌詞の意味も考えて。」
僕は、元貴の頭を撫でた。すると、とても柔らかな笑顔を見せてくれる。僕は、久しぶりに、こんなに元貴の顔をしっかりと見たかもしれない。僕を見るその眼は、前の元貴とは違うかもしれないけど、確かに僕への信頼は感じられる。今は、その気持ちにきちんと応えるべきだと、そう、思えた。
それから数日が経ち、四月も終わりを告げて五月に入っていた。週に一度の通院をこなしつつ、若井のソロ仕事や、僕の事務所での会議など、それぞれに仕事を順番に入れて、三人の生活を穏やかに続けていた。
ある日、仕事から帰ると、元貴と若井が嬉しそうに玄関で出迎えてくれた。
「なに? どしたの?」
「ふふふ、あのね。」
「涼ちゃん、こっち来て。」
二人に手を引かれて、リビングへ入ると、さらに奥の仕事部屋へと連れていかれた。僕は、ソファーに座るよう促され、それに従って端の方に腰を据えた。
元貴と若井が、それぞれにアコギを抱え、ソファーと椅子に腰掛ける。
「え…?」
僕が眼を見開いて驚いていると、せーの、と若井と共に、元貴がギターを爪弾き始めた。
これは、『ノニサクウタ』の、イントロだ。
僕は、膝の上で、自分のピアノパートを指でなぞる。元貴と若井が顔を見合わせ、笑顔で弾いていく。
今日もぼくは一生けん命 がん張った
いやなものなんてさ きらいな人なんてさ
今日も君は精一ぱいに がん張った
泣く事はグッバイです
あなたに笑顔をとどけた
元貴の歌声が、耳に届く。幼さの残る発声で、技巧なんてものは全くない。それでも、歌詞が真っ直ぐに心に入ってきて、僕は気付けば次々と涙を零していた。
しかし、元貴も若井も、そんな僕を見て、顔を見合わせて微笑む。心配そうな顔は一切しなくて。二人は、わかってくれているから。これが、大人だから流す、嬉しい涙だってことを。
「あー、歌し、間ちがえちゃった!」
「いやいや、すごいって! ちゃんと最後まで出来たやん!」
いぇい、と若井と元貴がハイタッチをする。僕も、涙を拭って、二人に向けて拍手を贈った。
「すごいじゃん元貴、いつの間にこんな練習してたの?」
「涼ちゃんが、事務所に行って、いろんな所とのやり取りとか全部やってくれてたじゃん。だから、その間に、元貴とギターの練習はしとこうと思って。」
「でもねー、結構すぐひけたよ。オレ。」
「そうそう、最初は思い出しながらって感じだったけど、すぐ弾けて。やっぱ体が覚えてんだよな。」
「そっか…ありがと、若井。元貴も、ありがとう、凄く素敵だった。」
二人とも、僕の言葉に、少し照れくさそうに笑っていた。
若井が、ソロの仕事へ行っている日、僕は、仕事部屋で元貴とギターとキーボードを合わせていた。曲はもちろん、『ノニサクウタ』。
「すごいね、涼ちゃんピアノ上手!」
「…ありがとう。」
なんだか、元貴にこんなに素直に褒められると、不思議な気持ちになる。実際、今の演奏は全然ダメだったし、元貴なら「それで曲が表現できてるとは思えない。もっと涼ちゃんのイメージを音に乗せないと。届かないと意味ないよ。」とかなんとか言って、叱咤激励を飛ばすに違いない。
僕は、心の中でまで、元貴に厳しいことを言われているのがなんだか可笑しくなって、つい笑ってしまった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。」
「…オレ、涼ちゃんは、泣いてるより笑ってる方がいいな。」
「え…?」
「涼ちゃんが笑ってると、オレもなんかうれしい。」
真っ直ぐに見つめて、そんなことを言われた。僕は、なんだか恥ずかしくなって、休憩しようか、とその場を後にした。
「ねえ涼ちゃん。」
リビングで、後ろから追いかけるように着いてきた元貴に、手を取られた。僕は、驚いた顔で振り向く。
「オレ、『君』って、涼ちゃんだと思う。」
「…え?」
「『君』は、すぐ近くにいる大切な人だと思う。で、『あなた』は、ちょっと遠くにいる、大切な人。多分、この曲をきいてる人、かな。『みんな』は、この世界の人全部。」
元貴が、一生懸命に、自分の考えたことを説明してくれる。
「で、やっぱり『ヒーロー』は、若井だし、オレだし、涼ちゃんだと思う。」
「…僕も、なんだ。 」
「うん、だって、『この歌は』ってことは、涼ちゃんだってピアノひいてるでしょ。だから、三人ともが『この歌』かなって。」
僕は、自然と、元貴を抱きしめていた。親愛と友愛を込めた、そして感謝を伝える為の、抱擁。
「ありがとう、元貴。いっぱい考えてくれたんだね。」
「…合ってる?」
「うーん、ごめん、僕には正解はわからないんだ。でも、僕にとっては凄く嬉しい答えだったから。だから、ありがとう。」
身体を離すと、元貴がニコッと笑いかけてきた。僕も微笑み返して、そして前から考えていたことを、二人に相談することに決めた。
若井が帰宅してから、三人でリビングの床に座って話をする。
「…元貴、『ノニサクウタ』を、みんなに届けるのは、どうかな?」
「え…。」
「ライブってこと?」
若井が、心配そうな顔で訊き返す。
「配信でこの一曲だけ、『元貴は元気だ』って伝える為に、ファンクラブ限定でもいいから届けるのはどうだろう、と思って…。」
「…まあ、生じゃなけりゃ、大丈夫だと思うけど…元貴、どう?」
「…オレが、みんなの前で、歌うの…?」
眉尻を下げて、元貴らしからぬ不安を吐露する。無理もない、自分がステージに立っていたことなど、未だに信じていないだろうから。
「とりあえず、一度スタジオに入ってみない? もちろん、出来るだけ少ない大人だけ来てもらうようにするから。」
「涼ちゃんと若井も一緒?」
「もちろん! 最初は俺たちだけにしてもらってもいいし。」
「うーん…。」
元貴が、少しの間、考える仕草を見せた。僕と若井は、視線を交わしてから、元貴を見守る。
「…うん、わかった。やってみる。」
元貴がそう言ってくれて、僕は安堵した。休養を発表してから、僕と若井の演奏動画や、あらゆる楽曲のリリックビデオなどをスタッフさん達がいくつも作ってくれて、世間に僕らを忘れさせない為の努力をずっとしてきてくれてた。これで、少しは、動き出すことが出来そうだ。僕は、思わず笑顔が零れた。
「ありがとう、元貴。」
元貴が、嬉しそうに微笑んだ。
その夜、寝室で明日のスタジオについて仲村さんとLINEでやり取りをしていると、また小さくドアをノックされた。視線を遣ると、若井が静かに入ってきた。
「涼ちゃん、どう? 」
「うん、スタジオいけそう。でも、明日撮るまではいかない方がいいと思う。まずは、場に慣れるところからにしようって。」
「そうね。」
言いながら、若井が隣に腰掛ける。
「…元貴がさ、『涼ちゃんが笑うと思って』って、言ってたよ。」
「え?」
「配信で歌うのも、スタジオに行くのも、ホントはちょっと怖いって。でも、オレがやるって言ったら、涼ちゃんが笑ってくれると思ったからって。さっき寝る前ポロッと言ってた。」
僕は、元貴の想いをちゃんと理解していなかった。「泣いてるより、笑ってる方がいい」と言ってくれた元貴。その想いに、僕こそちゃんと応えなきゃいけないのに。
「あ、泣く?」
「…ごめん。」
「いやいや、泣いていいのよ、泣かせにきたのよ。」
はは、と若井が笑って、涙を零す僕の肩を抱きしめる。
「…涼ちゃん、元貴は、やっぱりちゃんと今も涼ちゃんが好きなんじゃない?」
「…そういう、好きではないよ。」
「そうかなぁ…。…涼ちゃんは元貴の恋人だって、言ってみたら?」
「言えるわけないよ、相手は10歳だよ? 犯罪だよ。」
「いや…29だから。」
「違うの。僕の中ではそこは、やっぱりダメなの。」
「真面目だなぁ…。」
若井は、困ったように笑う。
ねえ若井、多分僕は、若井が思うほど、綺麗な心で元貴を好きなんじゃないよ。愛だけじゃなくて、劣情だって抱いちゃうんだ。だから、僕は意識して、間違っても今の元貴にそんな感情を持ってしまわないように、物凄く気を付けている。そんな状態なのに。
「好きだなんて、恋人だなんて言っちゃったら…僕は、僕が許せなくなると思う。」
「…そっか、ごめん。」
「ううん、ありがとう、心配してくれて。」
「ん。もし、キツいなってなったら、ちゃんと言ってね。勝手に我慢して、涼ちゃんまで潰れちゃわないでよ。」
「はは、うん。僕まで休養ってなったら、もう保護者が若井だけになっちゃうもんね。」
「そうよ。ワンオペは無理よ。」
「ははは。」
じゃあおやすみ、と言って、若井が部屋をそっと出ていく。
今は、とにかく早く、元貴が必死で創り上げてきた場所へ、元貴を還してあげたい。早くみんなの元へ、大森元貴を帰してあげたい。
僕の元貴への気持ちを元貴へ返すのは、いつでもいい。だって、この気持ちはこれからも絶対に消えることはないんだから。
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おーあああああ😭好きです
七瀬さーん✨更新ありがとうございます🥹 更新見てなんだか嬉しくなっちゃいました! 若井さんが変わらず素敵パパで素敵旦那でもう理想です😭 漢字は七瀬さんなら考えてるんだろうなって思ってたのでやっぱりさすがです✨ 「大人だから流す嬉しい涙」でそうだよな…ってなりました😌
2人の子育て感がナチュラルすぎて、2人が♥️くんを大事に思ってるところにほっこりしました✨ 真面目な💛ちゃんが♥️くんへの恋心を必死に隠そうとしてるんだけど、♥️くんが話す言葉に揺さぶられてる💛ちゃんが切なくも、良い❣️と叫んでました🫣💕 1日に2話も、嬉しい〜🫶