テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
🍽 みりん亭 第5話「夕暮れフライ」
「……それ、まだ動いてるんですか」
店の奥から聞こえたのは、ひとりの男性アバターの声だった。
すらりとした長身に、ワインレッドのジャケット。
髪は無造作な銀灰で、片目を隠すように前髪を流している。
瞳はやや鋭く、全体的に“今の世界に興味がない”ような雰囲気をまとっていた。
彼の視線の先、厨房の隅。
そこでは、フライパンが勝手に浮き、音もなく揚げ物を作り続けていた。
くもいさんがゆっくりと歩み寄り、頭を下げる。
「申し訳ありません。こちらは旧イベントの残滓で……。
揚げ物だけが、まだ役目を終えていないようでして」
彼女は濃い灰の和装に身を包み、今日もきちんと髪をまとめている。
左耳にだけ、小さな揚げ物のピンバッジがついていた。本人は気づいていない。
「揚げ物だけが残ったイベント……変ですね」
「はい。なぜか“父の日フェア”だけが、削除されずに浮かんでおります」
男はゆっくりと腰を下ろした。
カウンター席に、ぴたりと収まる動作。
だがどこか、座ること自体が“なつかしい”ような仕草だった。
「……“夕暮れフライ”をお願いできますか」
「かしこまりました」
やまひろは、空中の棚からフライパンを見ていた。
鳥の姿で羽をわずかに震わせ、バグログを開く。
イベント名:父の日記念フライキャンペーン(削除指示失敗)
残留AIシェル:感情タグ「照れ」「沈黙」
挙動:自動で“誰かのために揚げ物を作り続ける”
「……残してるの、自分じゃん……」
やまひろはそのログを閉じようとして、やめた。
料理が出される。
音はないが、揚げたての湯気がふわりと立つ。
小皿にはレモンがひと切れ、添えられていた。
男はひとくちだけ食べて、黙った。
そして静かに語りはじめる。
「……昔、うちの父がね。無言で揚げ物ばかり出してくる人だったんですよ。
何も話さないのに、皿だけは温かくて、なぜか憎めなくて」
「……今思うと、それだけが“伝え方”だったのかもなって」
くもいさんは黙ってうなずく。
そして、こう言った。
「揚げ物は、音がある料理です。
でも、伝えるのは音ではなく、熱だったのかもしれませんね」
男は、苦笑して残りのフライを口に運ぶ。
その瞳には、もう鋭さはなかった。
数分後、男は席を立ち、背を向けて言った。
「……あれ、また動き始めましたね。あのフライパン」
「はい。あの子も、たぶん……“誰かのために”を、まだ繰り返しているのでしょうね」
男の背が、静かに暖簾の向こうへ消えていった。
その夜、やまひろはログにこう記した。
“夕暮れフライ”は、感情AIのミスで生まれた存在。
だけど誰かの記憶とつながったなら、それでいい。
※削除指示は、保留。