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#BL
#ヒューマンドラマ
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夜。
縫季は自分の部屋で一人、卓の前に座っていた。
積まれた木簡。乱雑に並んだ墨の走り書き。安堵配給の増加、清朗の名前、医官府を通じた物資の流れ。
だが、まだ『線』になっていない。
縫季は息を吐き、視線を走らせた。
まず、事実。
十五日前から「安堵配給」が始まった。承認名義は清朗。供給元は医官府。配給先の地域がない。量は、二百斤から七百斤へ――短期間で膨張している。
そして今日。祭壇の香炉に足された、あの甘さ。
(誰かが、急いでいる)
増え方が『計画』ではない。目的が先にあり、物が後から追いかけている。
起点は同じだ。十五日前。
天界の沈黙も、十五日前から始まっている。
縫季は木簡を一つ抜き、墨で二重線を引いた。
清朗 = 入口
入口が開けば、次に起きるのは制度側の破綻だ。配給先が曖昧になる。記録が追えなくなる。混乱が育つ。
混乱が育てば、そこに『管理』が入る。
――黒闢。
縫季は、その名を口にせずに飲み込んだ。いまは仮説でしかない。だが、方向は合っている。
戸棚の奥から小さな徳利を引っぱり出す。眠れない夜に、考えを『線』へ戻すための。
盃に一口。
喉を落ちる熱が、胸の内のざわめきを一段だけ沈める。
(……清朗は、知らない)
あの甘さが何か。それが今日、何をしたか。
善意だけで動いている。だから止められない。だから、始末に負えない。
盃を置こうとした、そのとき。
空気が、白くなった。
照合香波の向こうに、人の気配が立つ。
『縫季。進捗を聞かせろ』
管理官だ。
縫季は盃を持ったまま、天井を睨んだ。
『今日の祭壇に、狂楽香の初期成分が混じっていた。清朗が足した。「安堵の香」と信じて』
白い圧が少しだけ重くなる。
『記録照合でも確認した』
『天が応じなかったのと、同じ理由だ。香炉が汚染されれば、経路が詰まる。それを、善意でやった』
沈黙。
『侵食の速度が上がっている』
管理官の声が、いつもより一段冷えている。
『清朗一人の善意でこの速度は出ない。背後に、供給経路がある』
『……黒闢か』
『まだ断定できない。だが、方向は合っている』
一拍。
『もう一つ報告がある』
『言え』
『祭壇に、影が差しかけた。九つの尾のような形で。だが、押し返された。来られなかった』
管理官の沈黙が、少しだけ長くなった。
『……そうか』
それだけだった。
縫季には分かった。管理官も、構造の意味を知っていた。
『この世界線には、天界からの降臨経路が成立していない』
『来ないのではなく、来られない。構造だ』
縫季は黙った。その通りだった。
責める相手が、どこにもない。
(だから、俺がいる)
『縫季』
『……分かってる。明朝、経路を追う。清朗から、供給元まで』
『それだけか』
『今日の祭壇、帝辛は気づいてた。気づいてて、それでも臣下の前で笑った』
沈黙。
『私情を照合判断に混ぜるな』
『混ぜてねえ。……混ぜるほど器用じゃない』
『なら良い』
即答。即答すぎて腹が立つ。
照合香波がすっと薄れた。
部屋に戻った静けさが、やけに広い。
縫季は盃を置き、徳利の口を指で塞いだ。
(……明日)
清朗の部屋。医官府の名簿。安堵配給の行き先。
手順を踏め。壊すのは、最小限だ。
縫季は灯りを落とした。暗闇の中で、胸の奥だけが、まだ微かに熱い。
今朝の帝辛の横顔が、瞼の裏に浮かんだ。祭壇の煙の中で、天の沈黙に、それでも背筋を正していた。
押し返された影を、知らないまま。香炉の甘さを、知らないまま。
(……あの笑みを、守る)
熱に名前はつけない。つけたら、線が歪む。
長い夜は、もう半分終わっていた。
◆
夜明け。
天界の端に、霧がある。
霧ではない。正確には、層が薄くなっている場所だ。記録の密度が下がると、こうなる。見えるが、触れられない。
九尾は、その縁に立っていた。
透灰の瞳が、霧の向こうを見ている。人界の、殷の、王太子府の方向を。
尾が九本、ゆっくりと空気を撫でた。
「……また、弾かれた」
掌を広げ、殷の世界線を探る。
あるべき場所に、線がない。昨日まで確かにあった。だが今、触れようとすると指が空を切る。
「速い」
尾の先が一瞬だけ墨色に揺れ、すぐ戻る。本人は気づかない。
「降りる足場が、ない」
九尾は視線を逸らした。
霧の端に、細い光がある。正史にも地図にも残らない、小さな線。
東の外縁。名も残らない小国の線だ。
「……ここか」
指先が触れただけで熱を持つ。
「殷に届かないなら」
尾が静かに揺れる。
「別の場所から押す」
その線へ、力を流した。
細い光が一瞬だけ強くなり、すぐ霧へ沈む。
遠回りだ。不確かだ。
それでも。
「あの王太子は、まだ立っている」
霧へ落ちた独り言は、誰にも届かない。
「記録に残らないものが、ある」
細い線がもう一度だけ光り、静かに消えた。
コメント
1件
今夜のエピソード、とても重厚で静かに燃えるような読後感でした。縫季の「線になっていない」という感覚、すごく分かります。情報がバラバラで、でも確かに何かが動いている——その不気味さがひしひしと伝わってきました。清朗が善意で狂楽香を混ぜてしまった場面、切なかったです。そして最後の九尾が「別の場所から押す」と決めた瞬間、鳥肌が立ちました。この世界の構造が少しずつ見えてくる感覚、たまらないです。帝辛の笑顔を守ろうとする縫季の静かな決意も、胸に残りました🌙