テラーノベル
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医局の壁に掛けられたシンプルな丸い時計が、午後7時を指している。
仕事を終えた私は、机の上の医学書とレポート用紙をバッグへ入れ席を立った。
「あれ? 帰るの?」
斜め前の席に座る麗香が顔を上げる。
「うん、今から食事に行く約束してるから。麗香はまだ仕事残ってるの?」
私は机の上に無造作に置いたボールペンを白衣の胸ポケットへ差し込み、電子カルテを操作する親友へ声を掛けた。
「へぇ~、食事ねぇ。……待って、私も帰る。今日は私も電車だから途中まで一緒に帰ろうよ」
「帰るって……その仕事いいの?」
「ん? 大丈夫、大丈夫。急ぎの仕事じゃないから。明日の午前中はフリーだし、その時に片付けられる」
麗香はマウスを数回クリックし、確認していた心臓エコーのレポートを閉じた。
「そうなんだ。あ……でも、私、駅までは行かないよ。一階のロビーで待ち合わせしてるから」
そそくさと帰り支度を始める麗香を見つめ、小さく笑う。
「へっ? ロビーで待ち合わせ? ……ちょっと待って。誰と?」
麗香は目を丸くし、慌てて声を潜めた。
「誰とって……遼だけど? 今日はオペが無いから早く帰れるんだって。あっ、なんなら乗り換えの駅まで遼の車で送って行こうか?」
私は眉を上げ、さらりと答えた。
「なんだぁ、旦那か。期待したのに。何て面白味のない」
麗香は不満そうに目を細め、ため息混じりに言葉を吐き出す。
「ちょっと、何言ってんの? 旦那に決まってるじゃん」
私は室内をきょろきょろと見渡し、麗香へわざと鋭い視線を送る。
少し離れた席では二人の呼吸器内科医が、CT画像を見つめながら難しい表情で話し込んでいた。
麗香は「聞こえちゃいないわよ」と言わんばかりに鼻で笑うと、
「旦那とデートなんて、宮坂ご夫婦は仲がよろしくて羨ましいわね。夫婦水入らずのデートを邪魔しちゃ悪いから、ロビーまでご一緒させて頂くわ」
そう言って、悪戯っ気たっぷりの笑顔を浮かべ席を立った。
更衣室へ向かう渡り廊下。
「ちょっと! 医局で意味ありげなこと言わないでよね」
何くわぬ顔で白衣のポケットへ手を入れて歩く親友の腕を、肘で軽く突いた。
「別に、あんな会話珍しくないじゃん。前はあれくらい笑い飛ばしてたのに。心にやましいことがあるから、必要以上に言葉に敏感になるのね~。あんた分かりやすいから気をつけなさいよ」
口を尖らせる私を軽くかわし、麗香はククッと喉を鳴らした。
「心にやましいことって……。私って、そんなに分かりやすい?」
眉を寄せ、気まずそうに呟く。
「分かりやすいわよ。完全に恋する乙女。
まぁ……今まで真面目っ子ちゃんで生きてきた亜紀ですからぁ。刺激的な初体験に浮かれちゃうのも無理はないけどさ」
後ろを振り返り、人影がないことを確認してから小声で言葉を返した。
「私、浮かれてるかな? 気をつけてるつもりなんだけど……」
「自分で気をつけてても、雰囲気で変化が分かるのよ。亜紀、医局へ戻ってくるたびに携帯チェックしてない? メールを読みながら、彼のことを思い出して、知らず知らずのうちに笑みがこぼれてない?」
「メールチェックは……してる。笑みは分かんないよ。だって、そんなの意識してないんだもん」
「意識してないから危険なの! 『笑みがこぼれる』ってよく言うけど、秘めている喜びほど無意識にあふれ出るものなんだから。
それに、今までほとんど携帯を触らなかったのに怪しいでしょ? 携帯って便利だけど、それ以上に危険な代物なんだからね」
麗香は立てた人差し指を私の額へ突きつけ、喝を入れるようにぴしゃりと言い放った。
無意識にあふれる笑み……
確かに否定はできない。
一週間前の――
今泉さんとキスをした、あの夜の光景がふと脳裏によみがえる。
知らず知らずのうちに、甘い胸の鼓動に引き寄せられるように口元を緩ませる自分がいた。
「うん……そうだね。今まで以上に気をつける」
しゅんと肩を落とし、上目遣いで麗香を見つめ
「素直でよろしい。だけど……蛍の君から、そんなに頻繁にメールが来るの?」
「蛍の君って……。ううん、平日の昼頃と夕方の早い時間に一回ずつ来るだけ。忙しい人みたいだから」
「亜紀がドクターだって知ってるの?」
「ううん、それはまだ言ってない。彼が私生活について訊いてこないから。訊かれてもいないのに、自分から『私は医師です』って……なんだか言いにくいでしょ?」
「……まぁ、そうね。……そっか。亜紀の私生活について訊いてこないんだ。メールも平日の昼と夕方だけね……」
麗香は前方に見える更衣室の扉へ視線を向けたまま、独り言のように呟いた。
「なに? どうかした?」
私は麗香の横顔を見つめ、不思議そうに首を傾げる。
「ん? ……ちょっとね。蛍の君が、どこまで本物の『大人の男』なのか試したくなっちゃった」
麗香はグロスで潤う艶やかな唇の端を上げ、にっこりと微笑んだ。
「本物の大人の男なのか試す? ……まさか、今泉さんに何かするつもりじゃないよね」
思わず眉をひそめる。
「ちょっと、やめてよ。人聞きが悪いわね。別に取って食いやしないわよ。それに、私が直接手を下して試すんじゃない。亜紀、あんたが彼を試すの。自分に相応しい男かどうか」
「自分に相応しい男……? 今泉さんはとても器の大きな人。試すだなんて失礼な」
「器の大きな人ね。その亜紀に与える安心感が本物なのか、それとも女に夢を見させる男の暗示なのか……。私はそこがとても気になるのよ」
「……」
「大切な親友を開花させる男なのよ? 私が太鼓判を押せる男じゃなきゃ駄目」
複雑な表情を隠せない私に、麗香は「ふふっ」と妖艶な笑みを浮かべた。
「ねぇ、次は蛍の君にいつ会うの?」
「えっ? ……えっと、来週の水曜か木曜に会えるかも。向こうが出張から早く帰って来られたらだけど」
「そうなんだ。あ、それなら、これから私をアリバイ工作に使ってもいいわ。でも、ちゃんと事前に教えてね。私に隠し事は無しよ。誰にも言えなくなると、落ちた時に抜け出せなくなるから」
更衣室の扉の前に立つと、中から数人の話し声が聞こえてきた。
私は口を引き結び、眉を寄せたまま床へ視線を落とす。
……落ちたら、抜け出せなくなる?
落ちるって、どこに?
恋に落ちるってこと?
それとも……
不倫の果てにある、私の想像もつかない泥沼の世界?
顔を強張らせ、生唾をこくりと飲み込む。
「……うん。分かった。麗香には報告するから……」
私は声を潜めてそう答えると、麗香の後を追って更衣室へ足を踏み入れた。
コメント
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みぅ🤍🥀です! 44話、読みました…! 亜紀さんの「無意識にこぼれる笑み」と、それを見抜く麗香さんの鋭さがすごくリアルでゾクっとしました。親友って、やっぱり一番近くで見てるからこそ気づくんですよね。「落ちたら抜け出せなくなる」って言葉が重くて、胸がギュッと締め付けられました。 今泉さんとの関係がどう転んでいくのか、それでも惹かれていく亜紀さんの心の動き、もっと知りたいです🌙 柏木さくらさんの作品は、いつも人間の弱さと強さが絶妙で、読むたびに考えさせられます。次の更新も静かに待ってますね。
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