テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#狂愛
柏木さくら
829
西原衣都
866
#ロマンスファンタジー
Jasmine
724
瑠璃マリコ
10,376
「平日に旦那と二人で食事なんて、久しぶりじゃないの?」
着替えを終えた麗香は、ロッカーの扉の内側に掛けられた小さな鏡を覗き込み、いつものようにメイクを確認する。
「うん、何か月ぶりかな。毎日お互い帰りが遅いから」
私は白衣をハンガーへ掛けると、ほどいた髪を軽く手ぐしで整え、ロッカーの扉を閉めた。
「お互い帰りが遅いから……ねぇ。特に有能な心臓外科医の旦那様は、アフターの予約もいっぱいでしょうし」
麗香は長い黒髪を耳へ掛け、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……でしょうね」
私は誰の耳にも届かないほど小さな声で、ぽつりと返した。
「もう、冗談だってば。亜紀ちゃん、怒らないでよぉ」
麗香は私へ歩み寄り、わざと甘ったるい声を出す。
「別に怒ってない。……笑い飛ばして否定できない自分が、情けないだけ」
見目麗しい親友を横目に、苦笑いを浮かべた。
「情けないって……。あ、ちょっと。いくらデートの相手が旦那だからって、口紅くらい塗り直して行きなさいよ」
突然、私の顔を覗き込んだ麗香が眉を寄せた。
「えっ? ……あ、うん。そうだよね……忘れてた」
慌ててバッグを開け、メイクポーチを探る。
そうか……
妻が自ら女を捨てる瞬間――
こういうことを言っていたんだよね……
今泉さん……。
躊躇いもなく口をついて出た「忘れてた」の一言が、胸にちくりと刺さった。
「旦那はもう仕事終わってるの?」
口紅を塗り直す私の後ろから、麗香が尋ねた。
「うん。新しいME機器の導入で、午後は業者から説明を受けるだけなんだって。病棟の仕事も終わったから、先にロビーで待ってるって、さっきメールがあった」
「そう。じゃあ早く行かないとね。待たされるの嫌いな男でしょ?」
「うん。待つのと人混みが嫌いな人。だからデパートの買い物なんて付き合ってくれたことないの。無駄に時間を使いたくないんだって」
口紅をポーチへしまい、バッグを肩に掛け直す。
「ワンマンな外科医によくいるタイプねぇ。……草木に囲まれて、のんびり蛍鑑賞なんて絶対にあり得ないわね」
麗香は嫌味混じりにそう言うと、小さく笑った。
北棟3階の更衣室を出て、ロビーのある中央棟の階段へ向かう。
テレビが設置された面会コーナーの前を通ると、紙コップのお茶やコーヒーを片手に談笑する患者と面会人の姿があった。
廊下へ響くヒールの音に、ふと顔を上げた患者へ向かって、私と麗香は軽く会釈をして通り過ぎる。
「前にいるの、オペ室のナースじゃない? 亜紀の可愛がってる楓ちゃんがいる」
麗香は、私たちの5〜6mほど前を歩くナースたちを指差した。
オペ室のナースの顔はほとんど知らないが、四人のうち一人は間違いなく見慣れた後ろ姿だった。
「楓ちゃん!」
私は麗香を追い越し、小柄な背中へ向かって声を掛けた。
私の声に、四人が一斉に振り返る。
「あ……みんな、お疲れさま」
楓ちゃんと年齢の近そうな若いナースたちへ、慌てて笑顔を向けた。
「亜紀先生と相川先生。お疲れさまです。今からお帰りですか?」
一瞬だけ表情を強張らせた楓ちゃんは、すぐに頬を緩めて頭を下げた。
日頃は隔離状態とも言えるオペ室勤務。
外科医ならともかく、内科医の顔まで全員把握しているはずもない。
「この人たちドクターなの?」と言いたげな表情で、楓ちゃんに続いて他のナースたちも会釈を返した。
「浅倉さん、久しぶり。元気そうね」
近づいて来た麗香が、私の後ろから笑顔で声を掛ける。
「相川先生は相変わらずお綺麗ですね」
楓ちゃんがそう言うと、麗香に見惚れていた他のナースたちも揃って頷いた。
「あら。浅倉さんありがとう。浅倉さんたちは、まだ帰らないの?」
「研修会が終わったので、今からオペ室へ戻り、それから帰ります」
「研修会って……楓ちゃんたちもME機器の?」
私は首を傾げながら尋ねた。
「ME機器? ……ああ、それは先生たちだけで、私たちの研修会は別の内容です」
楓ちゃんは目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。
コメント
1件
第45話、読みました。夫との久々のディナー前に「忘れてた」と口紅を塗り直す亜紀さんの心情が、今泉さんの言葉と重なってじわりと刺さりますね。日常のふとした瞬間に、自分が“妻”としてすれ違っている感覚がにじみ出ていて、胸が締め付けられました。楓ちゃんたちの研修内容が“別”というのも気になります。この“秘密”がどこへ繋がるのか、次が楽しみです!