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草原草原

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草原草原

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『社長室の新しい秘書、眼鏡の下で人の顔を盗み見てるらしい。気持ち悪くない?』
社内SNSの匿名掲示板に、その投稿が出たのは月曜の十一時五十八分だった。
投稿者の名前は「経理のなかのひと」。
まどかが受付から送ってきた画面の写しを、私は社長室の机の陰で見た。
同じアカウントの投稿が、ほかにもいくつも並んでいる。
『派遣から社長秘書って、何をしたらそうなるの? 夜のお仕事?』
『あの子、経理にいたとき一回も笑ったことない。人の顔ばっかり見てて怖かった』
『社長の愛人、名札まで手書きしてもらってるんだって』
最後の一つは、同じ日の十一時五十二分の投稿だった。
名札のことを知っているのは、社長室の三人と、私が名札をつけて歩いた廊下の人たちだけだ。
「灯、見た? 投稿の時間」
まどかが、内線で声を潜める。
「十一時五十二分、十一時五十八分、先週は十一時五十五分と十二時十四分。全部、お昼休み」
「お昼休みなら、どこの部署もそうだよ」
「ううん。十二時より前が、何回もあるでしょ。経理部だけ、月末の締めの関係で、昼休みが十一時五十分からなの。ほかの部署は全部、十二時から。十二時前に堂々とスマホいじってられるのは、経理部だけってこと」
私は、まどかの観察力にときどき本気で感心する。給湯室で拾える話は、たいてい監査より早い。
「……それ、誰かに言った?」
「言ってない。言ったら、私が裏アカ探ししてるって、それこそ給湯室で回るもん」
*
文字は、読めない。
画面の向こうの言葉は、どれだけ眺めても一本の線にも二重にもならない。ただの黒い字だ。
私の目は、顔がないと何もできない。
人の顔を盗み見る女。
書いた人は、たぶん冗談のつもりなのだろう。けれど、その一行だけは、妙に正確だった。
小学校の先生に、親戚に、アルバイト先の店長に、何度も言われてきた。人の顔をじろじろ見るのはやめなさい。気味が悪いから。
だから私は眼鏡をかけて、窓から一番遠い席を選んで、人の顔を見なくていい仕事に就いた。
その全部を、名前も顔もない誰かに、昼休みの十分で言い当てられた気がした。
午後、社長の使いで経理部に書類を届けた帰り、給湯室の前でゆりなとすれ違った。
「あ、瀬名さぁん。お疲れさまですぅ」
パステルピンクのブラウス。片手に、スマホ。
私は立ち止まった。
「早乙女さん。社内SNSの、経理のなかのひと、というアカウントを知っていますか」
ゆりなは、きょとんとした顔で首をかしげた。
「えー、知らないですぅ。なんですか、それ?」
言い終えたあと、彼女の目が一瞬だけ、私の顔を確かめるように止まった。
信じたかどうかを、見ている目だった。
――ぶれた。
けれど、それだけだ。
私が「今の、嘘です」と言ったところで、証拠は何もない。ここは懲戒委員会でも朝礼でもなく、給湯室の前の廊下で、私はもう経理部の人間ですらない。
ゆりなは、にっこり笑った。
「瀬名さん、またそうやって人の顔、じーっと見てるぅ。こわーい」
彼女は小さく手を振って、経理部に戻っていった。
スマホの画面が、ちらりと光った。
*
その夜、私は社長室の机で、自分の昔のファイルを開いていた。
経理部の共有サーバーに残っていた、減価償却の改善提案の原本。去年の秋、台所のテーブルで打ったものだ。
ファイルの情報を開く。作成者の欄に、私の派遣社員ID。
作成日時、去年の十月二日。最終更新、十二月十九日。
社長賞の事務局から取り寄せたゆりなの提出版も、同じように開く。
作成者の欄には、私のIDがそのまま残っていた。最終更新者だけが、早乙女ゆりな。中を見比べると、変わっていたのは表紙の名前と、目次の書式だけだった。
それから、私は本文を一行ずつ読んだ。
三ページ目の、四行目。
『各子会社の減価消却の計算表を、共通の様式に統一する』
償却、と打ったつもりだった。変換を一つ間違えたまま、気づかずに出してしまった誤字だ。
提出したあとに気づいて、恥ずかしくて、誰にも言わなかった。
経理の人間なら、まず書かない字だ。消却は、借金を返して帳消しにすること。資産の価値を年ごとに減らしていく償却とは、意味がまるで違う。
ゆりなの提出版の三ページ目、四行目。
『各子会社の減価消却の計算表を、共通の様式に統一する』
同じ字が、同じ場所に、そのまま残っていた。
私は、まどかが送ってきた裏アカウントの投稿の写しを、もう一度最初から見直した。
四か月前の投稿まで、さかのぼる。
去年の十二月二十日、十二時十一分。
『三か月かけた減価消却の改善案、ついに上に出した。社長賞いけるかも』
息が止まった。
この提案を「三か月かけた」と言える人は、作った私と、それを自分のものとして出した人しかいない。
そして、その人は「消却」という字を、正しいと思ったまま使っている。
*
九時を過ぎて、社長が執務机から立ち上がった。
「帰るぞ」
「お先にどうぞ。私は、あと少し」
「帰るぞ、と言った。君もだ」
コートを手にした社長が、私の机の前に立った。画面に開いたままの投稿の写しを、ちらりと見る。
「……読んだのか」
「はい。全部」
「読まなくていいものだ」
「私のことなので」
社長は少し黙った。それから、机の端に置いた私の鞄を、勝手に持ち上げた。
「下に車がある。送る」
「電車で帰れます」
「君の最寄り駅からアパートまで、街灯の切れた道が三百メートルある。柏木が調べた」
ぶれない。調べてあるのだ。いつの間に。
黒い車の後部座席は、静かだった。
首都高の灯りが、窓の外を一定の間隔で流れていく。社長は隣で、タブレットの書類を見ていた。私は膝の上で、名札のケースを指でなぞっていた。
「明日から、昼は私と取る」
社長が、画面から目を上げずに言った。
「……え?」
「十二時四十分。社長室で、同じものを二つ取る」
「そんなことをしたら、また噂が」
「噂の材料は、増やした方が早く飽きられる」
社長は、タブレットの電源を落とした。窓ガラスに、彼の横顔が映る。
「一つしかない噂は、何度でも同じ話をされる。十も二十もあれば、そのうち誰も覚えていられなくなる」
「……それは、経験談ですか」
「さあな」
窓に映った彼の右の口元が、少しだけ上がった気がした。
車が、私のアパートの前の細い路地に止まる。
降りる前に、私は言った。
「社長。裏アカウントの持ち主が、わかったかもしれません」
「知っている」
「え?」
「君の顔を見ればわかる。証拠は」
「あります。誤字です」
社長が、初めてこちらを向いた。
「誤字?」
「私が去年の秋に打ち間違えた、一文字です」
*
翌朝、柏木室長から、社長賞の表彰式の進行表の最終版が届いた。
受賞者の欄には、早乙女ゆりなの名前があった。受賞者の短いスピーチも、式次第に組み込まれている。
そして、司会の欄。
『司会進行 社長室 瀬名灯』
室長の付箋が貼ってあった。
『受賞者本人から、司会は社長秘書の方にお願いしたい、との強い要望がありました』
付箋の字は、いつもどおり角ばっていた。
私は、昨日の給湯室の前で、ゆりなが小さく手を振った指先を思い出していた。
コメント
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第6話、めっちゃゾクゾクしながら読んだわ!社内SNSの匿名掲示板からの展開、まどかの観察力で経理部の昼休み時間を特定するところがまず痺れた🔥 「減価消却」の誤字が証拠になるって…灯の過去の失敗が伏線になってるの芸術点高いよ。ゆりなが「こわーい」って笑って去るところ、あのスマホの光がたまらなく嫌な感じで良かった。社長の「昼は私と取る」もカッコよすぎるし、ラストの司会指名で次の展開がもう読めなくて続き待ってる!