テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#契約結婚
草原草原

564
72
#王道
涙乃
848
#ざまぁ
草原草原

634
社長賞の表彰式は、鷹宮タワー二階の多目的ホールで行われる。
客席は三百。役員、部長、受賞者の部署の社員、子会社の経理担当まで、半分以上が数字を扱う人たちだ。
ステージの袖で、私は司会の台本を握っていた。
グレーのカーディガンは、柏木室長に「式典ですので」と取り上げられた。代わりに渡されたのは、紺のジャケット。肩が少し余っている。
「緊張しているのか」
後ろから、社長の声がした。
「していません」
「眼鏡を三回、押し上げた」
「……それは、読めないの合図ではありません」
「知っている」
社長は私の横に並び、袖のカーテンの隙間から客席を見た。
「台本どおりにやれ。台本にないことは、一つだけでいい」
「一つ、だけですか」
「君が一つ聞けば、足りる」
台本の進行表には、私が自分で一行だけ書き足してあった。
『受賞者への質問(司会より一問)』
柏木室長は、それを見て何も言わずに印刷に回した。
*
「ただいまより、本年度の社長賞の表彰式を始めます」
マイクを通した自分の声が、ホールの天井で跳ね返ってくる。
三百人の顔。顔、顔、顔。眼鏡をかけたままでも、輪郭の線がうるさいほど目に入ってくる。
最初の二件は、営業部と物流部の提案だった。表彰状を渡す社長の横で、私は名前を読み上げ、拍手を促した。
三件目。
「固定資産の減価償却計算の様式統一による、子会社経理業務の削減。経理部主任、早乙女ゆりなさん」
拍手の中、ゆりながステージに上がってきた。
淡いピンクのワンピース。いつもより丁寧に巻いた髪。ステージの照明を受けて、ピンクベージュのネイルが光る。
社長から表彰状を受け取るとき、彼女は小首をかしげて、とびきりの笑顔を作った。社長は、一度もその笑顔を見なかった。
「では、受賞者の早乙女さんから、一言お願いします」
ゆりなはマイクの前に立ち、客席に向かって深くお辞儀をした。
「経理部の早乙女です。このたびは、本当にありがとうございます」
一本の線。
「子会社ごとにばらばらだった計算表を、一つにまとめられたらって、ずっと思ってたんです。経理部のみんなの残業が、少しでも減ったらいいなって」
「この提案は、私が三か月かけて作りました」
言い終えると、彼女の視線が、客席の最前列から後ろへ、すっと滑った。
みんな、信じてくれた? と確かめるように。
――ぶれた。
拍手が起きる。
ゆりなは満足そうに微笑み、私のほうをちらりと見た。司会台に立つ、紺のジャケットの元派遣を。
派遣さん、ちゃんと拍手してね。
そう言われた気がした。
「ありがとうございました」
私はマイクを握り直した。
「それでは、本日は受賞者の方に、司会から一つだけ質問をさせていただきます」
ゆりなの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。台本は、彼女にも配られているはずだ。読んでいなかったのだろう。
「スクリーンをご覧ください」
後方の操作卓で、まどかが手を上げた。今日だけ、受付から借り出されている。
スクリーンに、提案書の三ページ目が映る。四行目に、赤い線が一本。
『各子会社の減価消却の計算表を、共通の様式に統一する』
「三ページ目、『減価消却』と書かれています。ここは、通常は『償却』の字を使うところかと思いますが」
私は、ゆりなの顔を見た。
「これは、意図的な表記ですか?」
客席の前の方、財務本部の席で、誰かが小さく「あ」と言った。
ゆりなは、マイクを両手で握り直した。
「もちろん、意図的です。あの、子会社ごとの古い計算を、一回、こう、全部消して、新しくするっていう意味を込めて」
答える直前、彼女の顎がわずかに上がり、ネイルの指先がマイクの柄を強く押さえた。
――ぶれた。
眼鏡を外すまでもなかった。
客席がざわつきはじめた。最初は財務本部の列だけだったのが、子会社の経理担当の席に広がり、波のように後ろへ伝わっていく。
消却、だって。
減価消却なんて言葉、あったっけ。
経理の主任が?
私は、操作卓のまどかにうなずいた。
スクリーンの画面が切り替わる。提案書のファイルの情報。作成者の欄。
「この提案書のファイルは、作成者の記録が、去年の十月二日、経理部派遣社員のIDになっています」
私は、自分の声が震えていないことを確かめながら続けた。
「当時の私のIDです」
ホールが、静まり返った。
「誤字は、私が打ち間違えたものです。提出したあとで気づいて、恥ずかしくて、誰にも言えませんでした」
ゆりなの顔から、色が抜けていく。
「派遣には提案の応募資格がないので、早乙女主任に、部の名前で出していただくようお願いしました」
ホールの後ろの方で、まどかが隣の席の社員に何かささやくのが見えた。その社員が、またその隣にささやく。
あとで聞いた話では、まどかはこう言っていたらしい。
社内SNSの経理のなかのひと、去年の十二月に「三か月かけた減価消却の改善案」って投稿してるんだよ。同じ誤字で。
ささやきは、私がマイクを置くより速く、客席の端まで届いた。
「ち、違うの」
ゆりなが、マイクに向かって言った。声が裏返っている。
「違うんです、私、瀬名さんから相談されて、一緒に作って、それで」
もう、私は彼女の顔を見ていなかった。見なくても、客席が見ていた。
社長が、ステージの中央に歩み出た。
マイクを使わない声が、ホールの隅まで届く。
「本年度の社長賞のうち、三件目は取り消す。経緯は、後日、人事から通知する」
それだけだった。
ゆりなは表彰状を胸に抱えたまま、立ち尽くしていた。やがて、それを演台に置き、ワンピースの裾を握って、袖へ駆け込んだ。
泣き声が、カーテンの向こうで遠ざかっていった。
私は、マイクの前で一度だけ息を吸った。
追いかけて何か言うことは、いくらでもできた。言わなかった。
「……続きまして、四件目の表彰に移ります」
*
翌週、人事から通知が出ることになる。
早乙女ゆりな、経理部主任の職を解き、来月一日付で、物流子会社の鷹宮ロジスティクス、倉庫管理部へ異動。
社内SNSの「経理のなかのひと」は、その通知の前日に、跡形もなく消える。
けれど、それはまだ少し先の話だ。
*
式が終わったあと、ステージ裏の控室で、私は紺のジャケットを脱いでいた。肩が凝っていた。三百人の顔は、さすがに多すぎる。右のこめかみが、じんと脈を打っている。
扉が開いて、社長が入ってきた。
私は慌てて立ち上がろうとして、手で制された。
「最後の、四件目からの進行。声が小さかった」
「……すみません」
「早乙女に、何も言わなかったな」
「言う必要が、ありませんでしたから」
「君が言えば、客席はもっと沸いた。彼女はもっと惨めになった。君の手柄は、もっとはっきりした」
私は、膝の上のジャケットを畳んだ。
「沸かせたくて、あの質問をしたわけではありません」
社長は、少しのあいだ黙って私を見ていた。
「君は、勝ち方が下手だ」
ぶれない。
本当に、そう思っているのだ。少しだけ、胸の奥が痛んだ。
社長は控室の扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「――嫌いじゃない」
扉が閉まる。
一本の線だったかどうか、確かめる暇もなかった。顔が、見えなかったから。
*
控室を出ると、廊下に拍手の音が響いた。
ゆっくりとした、乾いた拍手だった。
廊下の窓際に、一人の男が立っていた。
銀色の混じった柔らかい髪。丸い眼鏡。少しだけ丸まった背中。スーツの上着の代わりに、紺のカーディガンを着ている。
社内報で何度も見た顔だった。
「素晴らしい目をお持ちだね、瀬名さん」
副社長、鷹宮貴之。社長の叔父。社員から「仏の副社長」と呼ばれている人。
彼は拍手をやめ、人のよさそうな笑顔で、私に近づいてきた。
「式は、ずっと後ろの席で見ていたよ。いい質問だった」
一本の線。
「怜くんは、いい人を見つけたね。私も嬉しいよ」
一本の線。
「困ったことがあったら、いつでも私のところにおいで」
一本の線。一本の線。一本の線。
彼の顔は、何を言っても、ぶれなかった。
コメント
1件
「壇上の誤字」、読み終わりました……。もう、胸の奥がぎゅっとなりました。 誤字から全てを明かす展開、本当に巧いなと思いました。眼鏡を押し上げる仕草や「ぶれた」の感覚、瀬名さんの内面が克明に伝わってきて、まるで自分もその場で見ているような没入感がありました。特に、社長が「君は勝ち方が下手だ」と言ったあとの「嫌いじゃない」のセリフ、あの距離感がたまらなく好きです。 副社長が最後に出てきて「ぶれなかった」ところで背筋が冷えました。続き、めちゃくちゃ気になります……!