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ある日、ユイスは怪物と見つめ合うような顔で、本気の後悔に浸っていた。窓から差し込む日差しは柔らかく、舞う埃さえも黄金色に輝いているというのに、彼の心中は猛吹雪だ。なぜ昨日、魔が差して”最近は新しい唄ないの?”などと聞いてしまったのか。
尖塔の一階。本来なら機織りの音が規則正しく響くはずの空間で、ソラスは手を止め、指揮者のように大袈裟に息を吸い込んだ。
「ユイス、聞いて! 自信作!」
「やだ」
「もう歌う気満々だから無理」
「やめろ」
ユイスの拒絶などそよ風ほどにも感じていないらしく、ソラスは姿勢を正し、こほん、と可愛らしく咳払いをする。
「第一番! 『パンの真実』」
「タイトルからして嫌な予感しかしない」
「『ここにお聞かせいたすのは
昨日食べた パンの話
丸くて 白くて ふわふわで
食べたらすぐに 無くなるよ
ああパン ああパン
名前はたぶん パンだった』」
「パンだろ」
「え?」
「たぶん、じゃない。間違いなくパンだ」
「細かいなあ」
「唄以前の認識の問題だ」
ソラスは、ふふん、と鼻歌交じりにページをめくるふりをした。白枝のような手には何もない。
「じゃあ第二番!」
「あるのかよ」
「『風の勇者 グレフリン
朝寝坊して 怒られる
剣を忘れて 山に行き
盾を忘れて 森に行き
最後に全部 忘れたよ
それでも勇者 グレフリン』」
「ただの馬鹿だ」
「でも名前は勇者だよ?」
「行動と肩書きが乖離してる」
呆れるユイスの横で、黒猫が机の上に飛び乗った。長い尻尾をゆらりと揺らし、なぁ、と気怠げに鳴く。
「ほら、猫も”良いね”って」
「違う、”うるさい”って言ってる」
ソラスは満面の笑みで無視した。
「次いくね、サビだよ」
「まだあるの!? ていうか今までのは前節だったのか?」
「ううん、別の曲。昨日いっぱい降りてきたの」
「変なのと交信ないでくれ」
「『悪しき魔女は 黄金がお好き
けれども黄金は 重たいよ
持ちすぎると 腰が痛い
だから魔女は 薬塗る』」
「所帯じみてるな」
「『悪しき魔女は 黄金がお嫌い
だってお薬 高いから』」
「原型どこいった」
ユイスは頭を抱えた。こめかみの辺りで血管が踊りまくっている。
「君、もしかして”情緒”って言葉を知らない?」
「楽しいかどうかで作ってるから」
「作詞家として最低のスタンスだ」
ソラスは満足げに頷くと、銀髪をふわりと揺らして次なる構えを取った。
「じゃあ一番の社会派ソングいくね」
「もう帰りたい。ここ僕の家だけど」
「『雪降る村の子供をご覧 子供をご覧
雪玉投げて はしゃいでる
そりゃもう 誰か泣いている
雪降る村の子供をご覧 子供をご覧
投げた本人 すぐ逃げる』」
「ただの事件現場だな」
「でしょ」
「でしょ、じゃない」
ソラスはきらきらした真珠の瞳を向けてくる。一点の曇りもない、純粋な狂気だ。
「唄って、ありのままの現実を切り取るものだと思うの」
「やめてくれその吟遊詩人ごっこ」
さらに歌声は続く。朗々と、無駄に良い声で。
「『ここにお聞かせいたすのは
黒猫今日も 何もしない
歩いて寝て 鳴いて寝て
気づけば大体 眠ってる
それでも可愛い 黒猫よ』」
その瞬間、黒猫がすっと前足を伸ばし、ソラスの足首に爪を立てた。
「痛っ!」
「本人? 本猫? から苦情来たぞ」
ソラスは猫に引っかかれた箇所をさすりながら、少しも懲りずに言った。
「最後ね! これがトリ!」
「やっとか……長かった……」
誇らしげな顔で、ソラスは最大限に胸を張った。絵の具よりも鮮やかに、彼女の表情が輝く。
「『尖塔に住まう 二人組
一人はまともで 一人は変
まともな方が 苦労して
変な方は 楽しそう
尖塔に住まう 二人組
今日も平和で うるさいよ』」
ユイスは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。塔の空気がぴりりと凍る。
「……どっちが変だ」
「え?」
「どっちが変だと唄ってる」
ソラスは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「え、私だけど?」
ユイスは、そこで初めて言葉を失った。振り上げた拳をどこへ下ろすべきか、その宛先が空気に溶けて消えてしまったようだった。窓の外では、落ちた葉が風にさらわれ、乾いた音を立てている。
「……自覚、あったのか」
「あるよ?」
ソラスは小首を傾げ、実ったばかりの林檎のように鮮やかに、屈託なく笑ってみせた。
「でも、ユイスがまともでいてくれるから、私は大丈夫だもん」
その言葉は、あまりにも無防備な信頼だった。ユイスはしばらく黙り込んだ。傾きかけた陽光が、床に長い影を落としている。
やがて彼は、呆れと、諦めと、そして胸の奥に灯った微かな安堵とを混ぜ合わせ、深く、長い溜息を吐き出した。
「……もういい」
「え、アンコールは?」
「ない」
「じゃあ、冬に向けて新作を考えてくる!」
「やめろ!!」
ユイスの悲鳴にも似た叫びが、高い天井に反響する。その日、本来ならば孤独と静寂を友とするはずの尖塔には、意味のない唄と、鋭い突っ込みが、飽きもせず一日中響き渡っていた。
深まりゆく秋の気配の中、ユイスは堅く冷たい黒煉瓦の壁に額を押し当て、二度と”新しい唄ないの?”とは口にすまいと、神に誓ったのである。