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尖塔の裏手に口を開ける古井戸は、恐ろしいほどに深い。かの暗闇は、理由など語らない。ただ昔からそこにある、大地の喉元だ。覗き込んでも水面は見えず、投げ入れた小石が音を返すまでに、人が一つ祈りを終えるほどの時を要する。ユイスはそれを”無駄に深い”とだけ評していた。
冬も間近となったその日、ソラスは珍しく、奇妙なやる気に満ち溢れていた。
「今日は私が汲む」
「やめておけ」
ユイスは即答する。壁に背を預け、呆れと諦めをない交ぜにした視線を投げてきた。
「やる」
「濡れるよ」
「やります」
ユイスは小さく肩をすくめ、どうぞ、と道を開けた。顔には、これから始まる喜劇を特等席で眺めようとする、意地の悪い色が混じっている。
「縄は離すなよ。命綱だと思うべき」
「わかってます」
ソラスは自信満々に、空の木桶を井戸の闇へと送り出し始めた。ぎぃ、ぎぃ、と滑車が錆びついた悲鳴を上げる。麻縄は指の間を滑り、底なしの暗がりへと吸い込まれていく。
「……意外と簡単」
「まだ水面にも届いてない」
「え?」
さらに縄を送る。
さらに。
もっと。
「……長くない?」
「無駄に深いって教えただろ」
ようやく遥か彼方で微かな水音がした。ぽちゃん、という、世界から切り離される頼りない音。
「よし!」
ソラスは踵を踏ん張り、勢いよく縄を引いた。瞬間、ずしりとした重みが腕にかかる。
「重っ」
「水は石より重いからね」
ソラスは両手で縄にしがみつく。ずる、ずる、と濡れた縄が戻ってくる。だが、慣れない労働に、白魚のような指が悲鳴を上げた。その時。
「わ」
汗ばんだ掌から、縄が蛇のように逃げ出した。
ひゅるるるるる――
回転する滑車の音が風を切り、最後に遠い底で、ぽちゃーーん、と間の抜けた音が響く。
沈黙。
風が草を揺らす音だけが残る。ソラスは恐る恐る井戸を覗き込んだ。その隣でユイスは、さも面白そうに覗き込む。木桶の姿は、闇に呑まれて全く見えない。
「……落ちた」
「すごい。見事な落下だ」
「どうしよ」
「拾っておいで。飛び込めばすぐだよ」
「死んじゃう」
「なら、釣るしかないな」
ユイスは深くため息をつき――口元は僅かに緩んでいたが――縄を手繰り始めた。だが途中で、ぐしゃ、と嫌な手応えが指に伝わる。
「絡んだ」
「え?」
縄は井戸の暗がりの中で、自らの尾を噛む蛇のごとくねじれ、固く絡まり合っていた。引くことも下ろすことも叶わない、完全な膠着。
「なにこれ」
「芸術的な結び目だ。触らずしてこれを作るとはーーやはり君には才能がある」
ソラスは頬を膨らませた。
「まだ何もしてないのに」
「何かした結果がこれなんだよ」
二人掛かりで縄を引く。結び目は岩のように動じない。ソラスは焦れて、井戸の縁から身を乗り出してみた。
「見えるかな」
苔むした石が、彼女の靴底を裏切った。
つるっ。
「わっ」
片足が滑り、井戸の脇の泥濘へと突っ込む。
ぴちゃ。
溜まっていた雨水が、容赦なく靴の中に侵入した。ソラス、停止。時が凍りつく。ゆっくりと顔を上げた彼女の目は、点になっていた。
「……冷たい」
「水温の確認? 熱心だね」
「すごく冷たい」
「足を抜け。それともそこで暮らす?」
慌てて足を引き抜いた瞬間、靴の中に溜まった水が、跳ね返ってスカートの裾を直撃した。純白の布地が、見るも無惨に泥水を吸い上げ、重く変色していく。ソラス、無言。ユイスは笑いを噛み殺すように顔を背け、縄との格闘に戻った。
「貸して。少し横から引いてみる」
「うん」
ソラスも濡れた手で縄を掴む。せーの、と呼吸を合わせ、ぐい、と力を込めた刹那。
ぶちっ。
絡まっていた結び目が弾け飛び、反動という名の暴力がソラスを襲った。彼女の体は後ろへと宙を舞う。
どしゃ。
そのまま、昨夜の雨が作った大きな水溜りの中へ、背中から潔く着地した。
ばしゃああ。
泥水が王冠のように跳ね上がり、彼女の銀髪を、頬を、服を、あますことなく汚して落ちた。完全なる沈黙。鳥の声さえも遠慮して止んだ。ユイスが振り返る。そこには、泥の化粧を施された少女が、呆然と座り込んでいた。髪から滴る水が、ぽた、ぽた、と地面に染みを作る。
彼は静かに、けれど明らかに楽しげに言った。
「……水浴びには、まだ早い季節じゃないかな」
その瞬間。ソラスの理性が爆発した。
「なんでこんなに難しいの!?」
さすがのユイスも目を丸くする。
「ただ水を汲むだけでしょ!? なんで!? どうして!? 井戸ってもっと友好的なものじゃないの!? どうしてこんなに意地悪なの!? 誰が掘ったのこれ!? 嫌がらせ!?」
「井戸に八つ当たりするな」
「怒るよ!!」
ソラスは立ち上がり、泥だらけのスカートをばしばしと叩いた。泥は落ちるどころか、さらに深く布に染み込んでいく。
「靴もびしょびしょだし! 冷たいし! 縄は勝手に絡まるし! 桶は逃げるし! ああ! 私、何も悪くないのに!」
「君が触った。それが全ての原因だ」
「井戸が悪いの!」
子供のように地団駄を踏むソラスを見て、ユイスはついに声を上げて笑った。
「もういい。僕がやる。そこで乾かしてなよ」
ソラスは、ぷんすかと鼻息荒く井戸から離れた。その後ろで、ユイスは何事もなかったかのように縄を捌き、予備の桶を滑らせる。滑車は軽快な歌を歌い、しばらくして、澄んだ水のなみなみと注がれた桶が、魔法のように引き上げられた。
ソラスが振り返る。その顔には、泥汚れと共に深い深い不満が張り付いている。
「……なんで」
「才能の差だね」
ユイスは涼しい顔で桶を置いた。ソラスはしばらく口を尖らせていたが、数瞬の後、聞こえるか聞こえないかの小声でぼそっと呟いた。
「井戸、嫌い」
「井戸の方は君のこと、好きみたいだけど。離そうとしなかったし」
尚も減らないユイスの軽口に、ソラスは濡れた靴で、彼の向こう脛を軽く蹴った。