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第3話 三時間
今まで笑っていた同行者の顔からも、すっと笑みが引いた。
職員を見る。狼を見る。もう一度、職員を見る。
これは、聞いていい話なのか。
狼の横顔が、全力で「聞くな」と告げていた。
「お前、人型になったばかりで、手足の長さにも重心にも慣れてなかっただろ」
「……その話は」
「立てばふらつくのに、介助はいらない、一人で厠まで行くって聞かなくてな。壁に掴まりながら、意地でも自分で行こうとして」
「その話は、しなくていいです」
「三時間な」
同行者の目が見開かれた。
反射的に、今の狼の手足を見る。先ほど二体の暴走霊を相手に、一度も体勢を崩さなかった男と、うまく歩けず壁に掴まっていた霊獣が、どうしても結びつかない。
「三時間……?」
口にしてから、同行者はしまったという顔をした。
「聞くな」
「いや、今のは確認というか――」
「確認もするな」
「厠までの廊下を三時間だ」
「詳しくしないでください!」
職員に悪意はない。一切ない。それが最悪だった。
「その日は結局、下衣を――」
「それ以上は勘弁してください!」
声が裏返った。
その瞬間だった。
ぽん、と狼の頭に耳が出た。
沈黙。
狼が自分の頭に手をやる。触れる。確かに、ある。
二体の暴走霊を相手にしても揺らがなかった人型が、天灯院の廊下で崩れていた。
「おっ」
職員の顔が輝いた。
「懐かしいなあ、その耳!」
「見ないでください」
「昔もそうやって、恥ずかしいと先に耳から出てさ」
「見るなと言っています」
「尾は?」
「出ていません」
「出てるぞ」
「出ていま――」
狼は後ろを振り返った。
出ていた。
「……っ」
同行者が壁に手をついた。声を殺しているが、完全に失敗している。
「笑うな」
「笑ってない」
「肩が動いている」
「呼吸だ」
「呼吸のわけがあるか!」
職員は嬉しそうに手を叩いた。
「ほら、そういうところは変わってないんだよなあ」
「変わりました」
「尾出てるぞ」
「変わりましたッ」
狼は物資を抱え直し、意識を集中させて人型を整え直した。耳が引っ込む。尾も、渋々消えた。
肺の底から息を吐く。
「……戻しました」
「今の何秒だ?」
「測らないでください」
職員がすかさず記録板を構えた。
「書かないでください」
「昔は十分もかかってたのにな。すごいじゃないか」
職員は、昔と変わらない優しい顔で笑っていた。
人型を整えるだけで精いっぱいだった頃、できたことを一つずつ見つけて褒めてくれた時と、同じ声音だった。
褒められた。
心から、褒められてしまった。
「……ありがとうございます」
狼は、生まれて初めて礼を言いながら死にたくなった。
コメント
1件
いやあ、これめちゃくちゃ良かったです……! 職員さんの「悪意はない、一切ない。それが最悪だった」って一文で、もう全部持ってかれました。三時間かけて廊下を這うように進んだ狼と、今の戦闘でびくともしない狼が同じ個体だと思うと感慨深い。最後の「礼を言いながら死にたくなった」という矛盾した感情の描き方、すごく好きです。過去を知る人の前でしか見せない照れが、キャラの厚みをぐっと増してますね。