テラーノベル
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#海辺の町
#ワンナイトラブ
目覚めた時に聞こえたのは、徐々に遠ざかって行く救急車のサイレンの音だった。部屋の中がぼんやりと明るいのは、開いたままのカーテンの向こうから、外の街灯の光が薄っすらと差し込んできているせいだ。
「……私、どうやって帰って来たんだっけ」
私はぼうっとした頭を両手で支えた。もぞもぞと体を起こし、すぐ隣に何やら黒い塊があることに気がつく。びっくりして息を飲むと同時に、ぼんやりしていた頭と目がたちまちにクリアになった。
何。誰。いったいどうして――。
私はベッドの上をじりじりと後ずさった。たどり着いた壁際に背中を張り付かせ、息を殺して目の前の塊の様子をじっとうかがう。ごくりと生唾を飲み込んだ時、黒い山がのっそりと動いた。薄明りの中に見えたその顔に、私は硬直する。目を凝らすまでもなく、その人が誰かはすぐに分かった。
どうしてここに矢嶋先輩がいるのかと動揺し、身じろぎした。その振動がベッドの上を伝わって、彼を目覚めさせる。
「んん……」
矢嶋がむくりと体を起こした。目元を手の甲でこすり、あくびをする。
「まずい。うっかり寝てしまった」
ぐんと両腕を頭上に伸ばし、彼は私の方に顔を向ける。
「お前も起きたのか」
髪をかき上げている彼に、私はおどおどしながら訊ねる。
「あ、あの……。先輩がどうして私の部屋にいるのでしょうか……」
彼は目を見開いて盛大なため息をもらし、呆れた声を出す。
「どうしてって、全然覚えていないのか?相当酔っぱらってたお前を、市川に頼まれて送ってきたんだよ。しかも三階の、ここの部屋まで、重たいお前を背負ってさ。この借りは、今度きっちりと返してもらうからな」
記憶を取り戻せない私はおろおろと訊き返す。
「あ、あの、でも、どうして私の部屋が……」
「どうして分かったかって?お前が教えてくれたんだよ。あんなに酔っぱらっていても、しっかりと住所を言えるなんて、ある意味感動したよ。鍵は、仕方ないからバッグの中を探させてもらった」
私は戸惑っていた。こんな風に、矢嶋とまともな会話をしたのが初めてだったからだ。これまでの彼との会話は、会話とは呼べないようなものばかりだった。彼から一方的にからかわれ、それに対して私が腹を立てながら文句を返すというのが定番になっていた。
矢嶋がずいっと身を乗り出し、私の顔をのぞき込む。
「ところで、気持ち悪いだとかはないか」
どきりとしながら、私は小声で答える。
「だ、大丈夫、です」
「ん。それなら良かった」
たったそれだけの短い言葉の中に、なぜか彼の優しさを感じて、私は動揺した。
「水、飲むか」
「自分でやりますから」
「俺も飲みたいんだ。グラス、勝手に借りるぞ」
矢嶋はさっさとベッドから降り、キッチンスペースに向かった。手探りで電気のスイッチを見つけて灯りをつける。すぐ傍の食器棚から取り出したグラスに水を入れ、私の元まで運んできた。
「ほら」
「す、すみません。ありがとうございます」
私はおずおずとグラスを受け取り、水を喉に流し込んだ。ふうっとひと息ついてからグラスを出窓の上に置き、私は正座をしてうな垂れた。自分に世話をさせた私に怒っているだろう彼に、早く詫びなければならない。
「大変なご迷惑をおかけしてしまったようで……」
私は背を丸めて小さくなり、矢嶋の口から出る言葉をじっと待った。
彼は静かに口を開く。
「確かに大変な迷惑だった」
彼のため息が聞こえ、私はますます体を縮め、小声で謝る。
「申し訳ありませんでした……」
この後は嫌味のオンパレードになるはずだと、私は身構えた。ところが、矢嶋の言葉は意外だった。
「いいか。今後はこういう醜態を晒すのは、俺がいる時だけにしておけよ」
「先輩がいる時?」
私は矢嶋の言葉を繰り返した。その意味を図りかねて首を捻る私に、彼は柔らかく微笑みかける。
「今度からは気をつけろっていう意味だよ」
今まで聞いたことがない彼の優しい声音に、私はどきっとした。しかしすぐに、その胸の高鳴りをなかったことにし、決めつける。矢嶋に関する私が見たものも聞いたものもすべてが幻影で幻聴だ。そうでなければ、私に対してみせる彼の優しさは単なる気まぐれに違いない。
「じゃ、俺は帰るから」
矢嶋の声にはっとして顔を上げた。その時にはもう彼は玄関に向かっていた。
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