テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
私は慌ててベッドから降りて彼の背中を追った。追いついて急いで玄関の灯りをつける。
「あ、あの、今夜は本当にありがとうございました……。お礼はいずれ、飲み会の時にでも……」
本当は礼などしたくはないが、彼に借りを作ったままではいたくない。
「礼なんかいらないよ。それじゃあ、たこ焼きちゃん、またな」
「だから、先輩。私はそんな名前じゃないんですけど」
私はため息をつきながら、靴を履いている矢嶋の背中に言った。相変わらず変なあだ名で私を呼ぶ彼に、もっと強い口調で文句を言いたい所だったが、今夜は分が悪い。
「名前くらい、ちゃんと呼んでくれませんか」
彼はおもむろに振り返り私を見る。
「ちゃんと?」
「そう、ちゃんとです」
矢嶋はしばし考え込むように首を傾げていたが、いったい何を思いついたのか、にやりと笑う。
「お前の名前、呼んでいいのか」
「もちろんですよ。だいたいそれが普通でしょ。あぁ、でも確認ですけど、先輩、私の名前は知ってますよね」
何を今さらと言いたげに、矢嶋が両の眉根を上げた。
「もちろん知ってるさ。フルネームでな」
「それなら、正しく呼んでくださいよ」
「分かった。呼んでやる」
矢嶋はふっと微笑んだかと思うと、私の耳元近くに突然顔を寄せた。驚いて動きを止めてしまった私の耳に向かって、良く響く低い声で囁く。
「夏貴」
「あ……」
深みのある声に鼓膜をくすぐられて、首筋の辺りがぞくぞくした。思わずもれた自分の声が恥ずかしく、私は慌てて口元を手で覆い隠した。
矢嶋は私の反応に満足した顔をしていた。私をじっと見つめ、さらに追い打ちをかけるかのようにますます甘い声で囁く。
「またな、夏貴」
自分の心臓なのに制御できない。うるさいほどに騒がしい鼓動を持て余しながら、私は声を絞り出す。
「またなんて日が……」
来るわけないでしょ、と続けようとした言葉を飲み込んだ。OBOG会に行けば、彼に会う確率は非常に高い。例年通りに行われるとすれば、次回の集まりは年末か、もしくは年明けになるはずだ。
ぜひともその時までには、この感情の揺らぎが消えていてほしいと祈るように思う。
以前の私は、確かに彼に恋をしていた。しかし今は苦手な人だ。だから彼に対して、今さら心が動くことなどあるわけがないのであって、彼の声に反応したのは、お酒がまだ残っているせいに違いない。いや、きっとそうだ。
心の中で自分自身に言い聞かせていた私だったが、ふと視線を感じた。そうっと目を上げた先に、矢嶋の柔らかな微笑みがあった。
しかし私と目が合った途端に、その微笑みはいつもの意地悪な笑みに変わった。からかうような目をし、彼は片頬を上げる。
「なんだ?俺に傍にいてほしいのか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!もう帰ってくださいっ」
「素直じゃないなぁ。と、いうか、深夜の大声は近所迷惑になるから静かにな」
「もうっ!早くっ!」
私は玄関に下りて、彼の胸をぐいぐいと押した。
「あはは。戸締り、しっかりしとけよ」
「言われなくたって分かってます!」
彼の背中がドアにぶつかったと思われた時、頭の上に何かがふわりと触れたような気がした。まさか、と頭に浮かんだ疑念があったが、それを振り払うように私は小さく首を横に振った。
矢嶋の静かな声が聞こえる。
「おやすみ」
「お、おやすみなさい……」
彼は当たり前すぎる言葉を言っただけだ。それなのに、どうしてこんなにと思うほど、どきどきした。
「じゃあな」
矢嶋はドアを開ける前に今一度振り返り、優しい声音を残して帰って行った。
目の前でドアが静かに閉まるまでを見届けて、私は部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
ついさっきまで矢嶋がここにいたことが嘘のようだ。その静けさの中に身を置いているせいか、今夜の彼の行動があれこれと思い出されて、私は落ち着かなくなった。
彼が私の名前を柔らかな響きで呼んだことも、私に優しく微笑みかけたことも、きっとそれらはすべて、彼の気まぐれにすぎない。もしかしたら、私の髪に口づけたかもしれないことなどは、その最たるものだ。今夜のことはすべて幻なのだと結論づけて、今夜はとにかくもう眠ってしまおうと、私はそそくさとパジャマに着替え始めた。
#海辺の町
#ワンナイトラブ