テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◇ ◇ ◇ ◇
早紀が経営するヘアーサロンは、昴と七香が住むマンションから電車で行くと大回りになってしまうため、タクシーで行くことにした。
道はさほど混んでおらず、十五分ほどで到着する。時刻は十時を回り、店舗はすでに暗くなっていたが、上のオフィス階は明かりが灯っていた。
まだ早紀さんは仕事中だろうかーー到着したことを知らせようとスマホを取り出した瞬間、背後からクラクションを鳴らされ、昴は驚いて体をビクッと震わせた。
振り返るとそこには赤いセダンが止まっていて、中から早紀が手を振っていた。昴はゆっくりと車に近付くと、助手席のドアを開けて中に入る。
「どうする? 少しならホテルに行ってもいいけど」
「いや、いい。別にそういうことをしに来たわけじゃないから」
昴の心は不思議と落ち着いていた。その空気を感じ取ったのか、早紀は何も言わずに車のアクセルを踏んだ。
「それで? 話って何?」
話を切り出され、意を決して深呼吸をする。
「俺……早紀さんのことがずっと好きだった。早紀さんしか見えていなかった。それは知ってるよね」
「えぇ、そうね」
「だから早紀さんに会えるのが嬉しかったし、体を重ねれば幸せだった。でも俺はセックスがしたいわけじゃなかったんだ。早紀さんが欲しかった。だからその手段としてセックスに依存した。早紀さんを悦ばせて、俺を好きになって欲しかった……」
七香に出会った頃は特に、早紀の周りにいる大人たちより自分を見て欲しくて必死になっていた。
「それでも早紀さんは手に入らないし、『あなたも他の人と寝て良いのよ』なんて言われてさ、悲しくて悔しくて、あの時に自分の中の何かが壊れたんだ」
早紀さんは一生自分のものにはならないーーそれなら彼女の言うとおりにすれば、ヤキモチくらい妬いてくれるのではと思った。しかし現実はそんなに甘くはなくはなく、彼女の気持ちを得ることはできないのだと悟った。
「早紀さんからの愛を諦めてから、生きているのも、人と関わるのも面倒になって、自暴自棄になってた。いろんな人とセックスして、満たされない気持ちを埋めようとした。早紀さん、愛情はくれないけど二人の時間は作ってくれたし」
「当たり前じゃない。昴のセックスは好きだもの」
「あはは。褒めてもらえて嬉しいよ」
昴は苦笑しながら窓の外に目を向けた。
「俺、早紀さんの気持ちが手に入らないってわかったあの日に、早紀さんへの愛が冷めたんだ。でも人として嫌いになったわけじゃないから、離れる理由が見つからなくて、会えばとりあえず体の関係を結んでいた。それだけで繋がっていられたから、寂しさが緩和された気がした。でもそれじゃあ何も変わらないんだよ。前に進むことも出来ずに、むしろ沼にハマって身動きが取れなくなった。欲しいものには手を伸ばしても届かないし、もがけばその深みにハマるだけ……」
そう、あの頃の自分は身動きが取れなくなり、どうすることも出来なかった。
「俺、ずっと愛情が欲しかったんだ。生きるために必要な心と体を潤してくれる、そんな希望が欲しかった。でも早紀さんといたらそれは望めない。俺はどんどん壊れて枯れていくだけーーでも枯れそうになると、いつもタイミングよく俺を潤してくれる人が現れるんだ。彼女はどんな俺も見捨てずにそばにいてくれた。だから俺も彼女といると……生きる希望なんてものを知らなかった俺が、未来のことを考えられるようになった。人との関わりが苦痛でこの仕事を選んだのに、仕事中にも彼女と話したいし笑顔が見たくなるんだ」
早紀は前方を見つめたまま黙って話を聞いていたが、昴の話が途切れたところでようやく口を開いた。
「つまり要約すると、好きな人が出来たってこと?」
「まぁそういうことかな……。早紀さんといることで捨ててしまった感情を、彼女が思い出させてくれたんだ」
「あら残念。そんなことを思い出さなければ、これからも自由な関係を楽しんで、気ままに過ごせたかもしれないのに」
「そうだね。確かに気付かなければ何も変わらなかったかもしれない。でも気付いたから欲しくなったんだ」
早紀のマンションの前で車が止まると、昴は早紀の方に向き直った。
「だから今日、俺は早紀さんに別れを告げようと思う。今までありがとう。俺はようやく幸せを見出した。だから早紀さんの世界から消えるよ。これからは俺がいない、早紀さんの幸せを生きて欲しい」
「えぇ、そうね。それが昴にとって本当に幸せな選択であることを祈ってる。さようなら」
「さよなら」
昴が車から降りるのと同時に、早紀の車は地下駐車場へと吸い込まれていった。
なんてあっさりとした別れだろう。彼女も昴と同じ、来るものは拒まず、去る者は追わない。似てるから惹かれたのかもしれない。
空を見上げると、月がこちらを見下ろしていた。
"早紀さん"という沼に落ちてから、こんなふうに空を見上げたことがあっただろうか。底辺まで沈みきったわけではなかったのに、開くはずの目を伏せ、出せるはずの声を飲み込んだ。いくらでも助けを求めることはできたはずなのに、それをしなかったのは自分の意思だった。
だけどそんな俺の心の叫びを聞き取って、手を差し伸べて沼から引き上げてくれたのは七香なんだ。
いつも昴を否定せずにそばにいてくれた。友だちとしてかもしれないけど、愛情を注いでくれた。そんな彼女が初めて昴を拒絶したーー。
まだ腕の中には七香の柔らかな肌の感触が残っている。七香に拒絶されるのが怖くて、口を塞ぐようにキスを繰り返した。でもそれは自分の気持ちにもキスで蓋をしたのと同じこと。
「やっと気付いたから……ちゃんとあの部屋に帰ってきてくれよ……」
七香を失いたくない。七香の気持ちを知るのが怖い。でも今度こそきちんと気持ちをつたえよう。振り向いてもらえるよう、何度でもアタックしよう。
輝く月に、昴はそう誓った。
白山小梅
12
#借金