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黒木の家は、新しく整備された住宅街の一角に建っていた。
右側が黒木が住む家、左側が両親が住む二世帯住宅。
白い壁にテラコッタの煉瓦がアクセントとして施され、渋いオレンジ色の瓦屋根が可愛らしくも上品だ。
ガラス張りの吹き抜けには鈴蘭のように連なるランプが吊るされ、玄関へ続く煉瓦の小道の両脇にはオリーブの木が風に揺れていた。
庭先の芝生には、白い木のブランコまで置かれている。
「か、可愛い……ですね」
「おふくろの趣味なんだ」
「そう、ですか」
「嫌い?」
「いえ、大好物です」
家のすぐ隣には大型遊具のある緑地公園があり、石の階段を降りれば桜並木の向こうに犀川の河川敷が広がっていた。
黒木は平気な顔で言った。
「子どもが生まれたら、たくさん遊ばせられるよ」
瑠璃の頭の中が一瞬で真っ白になった。
結婚。
二世帯住宅。
子どもは二人欲しい。
すべてがぐるぐると回り始めた。
(ま、まさか黒木さんがここまで未来予想図を描いていたとは……)
「さ、父さんたちが待ってるから」
瑠璃はこれまで生きてきた中で一番背筋を伸ばし、ぎこちない動きで黒木の横に立った。
「は、初めまして。満島瑠璃と申します」
「いらっしゃい」
(し、ししし支店長ーーーーーーーーーー!)
そこにいたのは、会社の広報誌でしか見たことのない顔だった。
焦茶のワンピースの脇に冷たい汗がじわりと滲む。
玄関で靴を揃えるときに踏み外しそうになり、黒木に腕を支えられたが、その後の記憶はほとんどない。
気がつくと、白い革のソファに座り、紅茶を口に運んでいた。
目の前に黒木の母が焼いたというアップルパイが出され、フォークを刺したまでは良かった。
しかしパイの皮がボロボロと崩れ、シナモンの効いたリンゴのコンポートを顔を真っ赤にして頰張る羽目になった。
「本当に可愛いわ。洋平のお嫁さんには勿体ないくらいね」
ごふっ
「営業部一の美人だからな」
ごふっ
瑠璃は「ご馳走様でした、では!」と席を立ち、この場から逃げ出したくなった。
隣の黒木は涼しい顔で紅茶を啜り、二個目のアップルパイに手を伸ばしている。
(く、黒木さん、助けてくださいーーー!)
すると黒木の父親が、予想外の話題を切り出した。
「瑠璃さんは色々とあったみたいだけど……その辺りは大丈夫なのかな?」
(し、支店長! え、そこ来る!?)
「あ、は、はい」
「父さん、その話はもういいだろう」
「いや、ちょっと興味があって」
(きょ、興味ってーーー! そんなお手軽なーーー!)
さらに黒木の母親が、驚くべき爆弾を落とした。
「懐かしいわぁ」
「あぁ、懐かしいな」
「何がだよ」
「お母さんもね、お父さんともう一人の男の人にプロポーズされて」
「初耳だよ」
「悩んじゃうわよねぇ、ねぇ、瑠璃さん」
「い、いえ! 私は悩んではいません! く、黒木係長一筋です!」
「父さん、もう一人って社の人間?」
「あぁ、副支店長だよ」
「副支店長さんよ」
ぶほっ
黒木家、社内恋愛体質が強すぎる。
瑠璃と黒木は紅茶を吹き出して口元を拭いながら、繋がっている廊下を渡り、黒木の家へと移動した。
一枚の扉で仕切られ、インターフォンと施錠付き。
プライベートはしっかり守られそうだ。
瑠璃は少しだけ安堵した。
「まだ使ってないから」
「わぁ、綺麗ですね」
新築同様に水回りはピカピカで、埃一つない階段。
「いつもこんなに綺麗なんですか?」と聞くと、瑠璃を招くために土曜日を掃除に費やしたと笑われた。
一階はキッチン、リビングダイニング、二階には洋室が三部屋。
家具は黒木の部屋だけにあり、シンプルで木製と生成りリネンが中心。
すべて瑠璃の好みだった。
「私もM印、好きなんです!」
「じゃあ全部M印で揃えよっか」
「い、良いんですか、私で」
「M印良品と瑠璃さんは関係ないでしょ」
「そ、そうですが……」
黒木は窓から景色を眺める瑠璃の両肩にそっと手を置いた。
突然のことに体が強張る。
「ど、どうしたんですか」
黒木は後ろから優しく抱きしめ、目の前に臙脂色のビロードの小さな箱を差し出した。
骨ばった指が蓋を開け、耳元で静かに囁く。
「結婚してください」
瑠璃は震える指でプラチナの指輪を摘み、左手の薬指にそっと嵌めた。
銀色のリングに、大小三粒のダイヤモンドが煌めく。
「い、良いんですか、私で」
「返事は?」
「ありがとうございます」
頰を温かな涙が伝った。
幸せな涙だった。
――月曜日。営業部フロアで、瑠璃の左薬指に黒木が贈ったエンゲージリングが明るく光っていた。
向かいの席の奈良に笑顔で話しかけ、書類を渡し、時には軽くふざけ合う姿も見られる。
あれはいったい
既読
指輪は黒木、だよな
既読
当たり前でしょ
既読
三人、和解したようですな
既読
めでたしめでたし
既読
もう私ら何も言う必要ないよね
既読
奈良への批判的な声は、すっかり鎮まっていた。
そして10月8日。
社内一斉に送られた北陸三県合同研修会の案内メールに、誰もが息を飲んだ。
富山支店 参加者
営業部
木倉 直
佐川 さな
「佐川さんが金沢に来る……」
「佐川さなって、建と付き合ってた人だよね? どんな女性なんだろう」
参加者名簿を見た黒木の表情が、わずかに曇った。
「佐川……さな」
研修会まで、あと一週間。三角関係がようやく落ち着き始めたかに見えたその矢先、
新たな波乱の予感が、静かに営業部を包み始めていた。