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『お餅』🌹
10月15日。
北陸三県合同研修会当日。
三共保険株式会社の金沢支店営業部フロアは、朝から微妙な緊張に包まれていた。
参加者名簿に「佐川 さな」の名前が載った瞬間から、噂は静かに広がっていた。
かつて奈良建と二股交際をしていた女。
そして今、黒木係長の婚約者である満島瑠璃の、元恋敵。
黒木自身は、参加者名簿を見て小さく息を吐いただけだった。
(さな……平仮名で《さな》。奇遇だな)
五年前、新潟支店時代に交際していた女性。
名前が変わっていたこと、母親の再婚で佐川姓になったことまでは知らなかった。
黒木は古い携帯メールアドレスに指が触れそうになり、すぐに思いとどまった。
瑠璃の笑顔が脳裏に浮かんだ。
もう過去だ。
若い頃の思い出に蓋をして、黒木は席を立った。
一方、営業部ではグループLINEが静かに荒れていた。
どうする
既読
どうするって、どうするのよ
既読
でも佐川さな、どんな女なんだろう
既読
奈良に二股させた女だぜ、美人じゃね
既読
あー、なんかムカつく
既読
まぁ、生ぬるく見守ろう
既読
研修参加者が順番に挨拶に回ってくる。
福井県勢が羽二重餅の菓子折りを手に現れたときは、皆がほっと胸を撫で下ろした。
しかし、次の瞬間。エレベーターの扉が開き、ワンレングスの黒髪にシルバーの細縁眼鏡をかけた女性が姿を現した。
「佐川、さん」
あれが、二股の張本人。
面長で細い眉、冷たい印象の小さな瞳。
ベージュオレンジの口紅が、肌に馴染んでいる。
白いシャツに黒の膝丈タイトスカート。
肩までの黒髪が、静かに揺れた。
瑠璃は息を飲んだ。
奈良のマンションを訪れた夕暮れ、手に郵便物を持っていた背の高い女性――
あの人が、佐川さなだった。
奈良は驚きというより、どこか懐かしげな穏やかな表情を浮かべていた。
瑠璃の胸に、微かな細波が立った。
寿が慌てて腕で大きなバツを作り、首を左右に振る。
瑠璃は小さく頷き、左手の薬指のエンゲージリングをそっと撫でた。
(もう、終わったことだ)
しかし、その直後。富山勢が白海老煎餅の箱を黒木に手渡した瞬間、空気が凍った。
「大津」
「黒木、さん」
黒木が佐川を「大津」と呼び、佐川が黒木を「黒木さん」と呼んだ。
親しげで、まるで昔からの知り合いのような口調。
女性社員のキーボードを打つ手が止まり、耳打ちが波のように広がった。
(どういうこと……?)
昼休憩のチャイムが鳴ると同時に、寿は瑠璃の手を引いて屋上へ急いだ。
「ちょ、どうしたの?」
「あんた、知らなかったの!?」
「何が?」
「黒木と佐川さなが、昔付き合ってたかもしれないってこと!」
「え……もう一度言って」
「黒木の昔の女が佐川さなだって言ってるの!」
屋上の人工芝に足を踏み入れた瞬間、建物の陰から聞き覚えのある声が聞こえてきた。黒木と、佐川さなの声。
「しっ」
寿は瑠璃の口に指を当て、壁際に身を寄せた。
そして一人で静かに近づき、様子を窺う。
ベンチに腰掛けた黒木の後ろ姿。
その横でコーヒーカップを手に、黒髪を掻き上げる佐川さな。
会話は穏やかで、しかし明らかに個人的なものだった。
「新潟にいると思ってた」
「気が付かなかったの?」
「名前が変わってたから」
「ああ」
「大津さな、佐川さな……結婚はしてないんだな」
黒木が左手の薬指をチラリと見た。
「お母さんが再婚したのよ」
「そうか」
「お母さんの具合は? 腎臓、まだ悪い?」
「入院してる」
「そうか」
佐川の視線が足元に落ちた。
「うちの奈良とのことだけど」
「なに」
「こっちに本命がいるって知ってたんだろ。遊ばれてると思わなかったのか」
「遊ばれてるなんて……」
「好きだったのよ」
「二股だろ。遊ばれたようなもんだ」
「そんなことない」
「さな、自分を大事にしろよ」
佐川の声が、震えた。
「黒木さん」
「なに」
「相談したいことがあるの。今夜、会えない?」
「会わない」
「どうしても駄目?」
「結婚するんだ。だから会えない」
「結婚って……誰と? 会社の人?」
「さなに言う必要はないだろ」
佐川はコーヒーカップを人工芝に置き、おずおずと指を伸ばした。
黒木の胸に飛び込み、懐かしい胸板に体を預ける。
頰を涙が伝った。
「ずっと、黒木さんのことが好きだったの!」
「もう終わったことだよ」
「結婚しようって言ってくれたじゃない!」
「五年も前の話だ」
「黒木さんしか要らない!」
黒木は静かにその腕を解いた。
「さなが欲しいのは、父親代わりの男だよ」
「そんな……お父さんの代わりだなんて」
「五年前と同じことを繰り返さない」
「さなの寂しさを埋めることなんて、俺にはできない」
「好きなの。一緒にいてくれるだけでいいの」
「重いんだ。さなのその気持ちが、重い。耐えられない」
「もう……駄目なの?」
「俺の心は、もう決まってる」
その瞬間、寿が勢いよく立ち上がった。
スカートの裾をパンパンと叩き、大きく息を吐く。
そして仁王立ちで叫んだ。
「偉いぞ黒木!」
二人の背中がびくりと跳ねた。
「そこでむちゅーとかしたら靴で殴ってやろうと思ったけど、良き!」
寿はドアの陰で縮こまっていた瑠璃の腕を掴み、ぐいぐいと押してベンチの前に連れ出した。
「はい! この人が黒木係長の婚約者です!」
「ちょ、まだ……」
「まだも何もないわよ! ほら、自己紹介して!」
瑠璃はおずおずと一歩踏み出し、頭を下げた。
「は、はじめまして……満島瑠璃です」
佐川さなは突然現れた婚約者に呆然としたが、すぐに立ち上がり、深々とお辞儀を返した。
「では、失礼しました!」
寿は瑠璃の後頭部を押さえ、二人が揃って頭を下げると、そのまま屋上を後にした。
ギィ、バタン。
扉が閉まる音が響いたあと。
佐川さなはベンチに座り直し、両手で顔を覆った。
嗚咽が漏れる。
黒木は深く腰を下ろしたまま、どこまでも高い秋の青空を振り仰いだ。
過去に囚われていた佐川さな。
未来を選んだ黒木。
二人の間にあった糸は、とうに解けていた。
「ごめん」
佐川さなは、再び別れを告げられた。
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