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姉・フィナンシェの結婚準備は着々と進んでいた。
この日も婚約者・ヴェネディクティン伯爵がやって来て、何やら色々と打ち合わせをしているらしい。本来ならばヴェネディクティン家が中心となって式を準備するところなのだろうが、そこは国内屈指の大貴族を立てるという事でこうなったようなのだ。
それが一段落つくと二人は連れ立ってショコラが待つテラスへと移動し、そこで三人一緒にお茶をする。――というのが、ここ最近の定番になっていた。
あの見合いから程なくして挨拶に訪れた伯爵に、ショコラはすぐに懐いた。華は無いものの、彼は穏やかで人当たりも良い。元々見合いの時の様子から一目置いていた事に加え、あの姉が認めた相手という事もあって彼女の信頼は厚かった。
その上、今まで余所の人間とあまり接触の無かったショコラにとって、彼は興味の尽きない対象でもあった。
「伯爵様の領地は大きな港町なのでしょう?どんな所なのですか⁇」
わくわくとしながらショコラは尋ねる。
「そうだね、とても貿易が盛んな所だよ。色々な国から色々な物が入って来るし、街には外国からの訪問客も多い。毎日賑やか過ぎるくらいだよ。今度遊びに来たらいい。そうだ、君たち外国語の方はどうなんだい?」
“君たち”と言いながらも、伯爵はフィナンシェへと話を振った。
「そんなもの、幼い頃から何か国も叩き込まれていますわ。私たち、これでもオードゥヴィ家の娘ですのよ。数なんていちいち数えていられません。」
フィナンシェはツンとしながら答えた。
「特にお姉様は、お父様のお仕事の都合で一緒に外国へいらっしゃる事もありますものね!」
「ええ。お父様ったら、そういう時には娘の事でさえ利用するのだもの。――でも、どうしてかお留守番のショコラの方が、外国語が達者なのよね。」
「えへへ…お姉様と一緒にお勉強しましたから、楽しくて。それに、お留守番の時には他にする事が無かったので……。」
「まあ!そうだったのね…。寂しい思いをさせてしまってごめんなさい!」
……いつの間にか、会話は姉妹だけの世界になっている……。入り込める隙間が無い。伯爵は苦笑いをした。
「…本当に、君たち姉妹は仲が良いね。妬けてしまうな。ところでショコラ、そろそろ“伯爵様”はやめないかい?私の事は“クレム”と呼んでくれ。親しい者は皆そう呼んでいるから。」
「分かりました!それでは、クレムお義兄様とお呼びしますね。」
――とまあこんな感じで、フィナンシェ婚約後の公爵家の屋敷内は、忙しくもほのぼのとした日々を送っていたのだった。
今の今、までは。
そう、突然の来訪者がやって来るまでは……。
「失礼いたします、皆様。」
まずそこへ現れたのは、家令のオルジュだった。三人に声を掛けた彼は、少し困ったような顔をしている。当たり前だが、「来訪者」とはオルジュの事ではない。
いつもとは少し様子の違う家令に、クレムは少々不安を覚えた。
「どうしましたか?」
「……それが……。事前の連絡も無しに、フィナンシェお嬢様にお会いしたいという方がいらっしゃいまして……。」
それを聞いた三人は顔を見合わせた。そしてフィナンシェが口を開く。
「そんなものはお父様に約束を取り付けた上で、後日いらして頂くように言って追い返したらいいじゃないの。」
「そうなのですが……、そのお方は“侯爵様”でいらっしゃるのです……。無下にする事も出来ませんので、こうしてご意見を伺いに参った次第でございます。」
家令は汗を拭き拭き説明した。ショコラは首を傾げた。
「……お姉様に直接だなんて、一体何のご用なのでしょうね⁇」
二人も首を傾げる。やはり、三人に思い当たる節は無かった。
いや、あるとすれば――…
「……“お祝い”……、だろうか?」
クレムがそう言うと、フィナンシェは即座に反応した。
「でも私、特別懇意にしている侯爵様なんていませんけど。」
父の仕事の関係者にも“侯爵様”はいるが、そうであればこの屋敷で最も長く働くオルジュが対応に困る事は無いだろう。ましてや、その名を告げなかったりするはずも無い。という事は、それ以外の“侯爵様”――…。
「しかし、とりあえず身分ははっきりしているんだね?それならお通ししてみようか。」
何はともあれ、相手は「侯爵」。怪しい人物では無いのだ。事前の連絡も無しに、という事が少々引っ掛かりはするものの、三人はその人物と会ってみる事にした。
しばらくすると、一人の青年がテラスへと案内されて来た。
こちらへ向かって来るその青年は、遠目に見てもキラキラとした華のある人物だと分かる。……もちろん、フィナンシェほどの目映さではないが……。しかし、ショコラはほんの少しだけ驚いた。
『まあ!殿方なのに、お姉様みたい。こんな方がいらっしゃるだなんて――…』
近くで見た彼は、これまで姉の見合い相手としてやって来た中の誰よりも綺麗な造作をしていた。言うまでもなく、彼女がそんな男性を見たのは初めての事だった。恐らく普通のご令嬢方なら、思わず見惚れてしまうところだろう。
――が。生まれてこの方、間近で絶世の美女を見続けて来たショコラにとってはその程度、見惚れるという事は無かった。
やがてフィナンシェの前まで来た彼は跪き、その手を取った。
「お初にお目にかかります、フィナンシェ嬢。私は陸上師団次期団長、侯爵のグラス・レザン・グゼレスと申します。お見知りおきを。」
キラキラと微笑みながら名乗ったグラスは、あろう事か婚約者の目の前でその手に口付けをした。その際、横目でちらりとクレムの方を見て不敵に笑ったので、これはただの挨拶という意味ではなかったのだろう。
しかしクレムは慌てた素振りを見せず、自然に彼からフィナンシェの手を外すと笑顔で対応した。
「これはグゼレス侯爵様。突然のご訪問、どういったご用件でしょうか?」
その顔は笑っているのだが、その空気には怒りが感じられる。一方のグラスも負けてはいない。
お得意の(と思われる)キラキラとした笑顔を見せながら、どこまでも余裕の態度で返した。
「……ああ、これはヴェネディクティン卿。ちょうどよかった。私はこの結婚がどうにも腑に落ちなかったのですよ。なぜそんな事になったのか、是非とも理由をお尋ねしたい。」
挨拶の第一声が、この挑戦的な発言……。実にわざとらしい言い方だ。
二人は笑顔で睨み合った。当のフィナンシェは、それを見て面倒臭そうな顔をしていたのだが……
この状況に驚いたのは、ショコラだった。
『ど、どういう事なの⁉侯爵様はお姉様の結婚に反対…という事⁇……でも、そんな権利、侯爵様には……』
彼女は混乱していた。混乱したまま、右へ左へと両者の顔を交互に見てはオロオロあわあわとした。二人とも“笑顔”で穏やかに喋っているのに、ひしひしと伝わって来るこの不穏な空気――…
こんな状況に遭うのも初めてだ。……いま目の前で繰り広げられているのは、一体何なのだろうか……
「申し訳ありません。私たちの問題ですので、余計な詮索はお控え頂けませんか?」
怖い笑顔を張り付けたクレムは、穏便に済ませようとしながらも親密さを殊更強調するように言った。
双方とも、さっきまでのは小手調べ。これが開戦の合図だった。
「――“余計な詮索”、ね……。聞いたところでは、ヴェネディクティン卿はなかなかのやり手との噂ですが。」
「ええ、まあ。我が領地は貿易の中心地ですから、その関係でのお話ですね。」
「交渉事がお上手だという事でしょう?――…何か、“好からぬ手”でも使われたのではないか、と……。」
上手く話をずらそうと試みるクレムに対し、グラスは直球で攻めて来る。客人は明らかに義兄に喧嘩を売っている。二人の周囲には、バチバチと火花が散っているように見えた。
そして次の瞬間、ショコラは自分の耳を疑った。
「でははっきり言いましょう。フィナンシェ嬢は、我がグゼレス家にお迎えしたい!」
グラスによる、突然の略奪宣言だ。直球もここまで来ればいっそ気持ちが良い。……なんて言っている場合ではない。まさかの事態に、ショコラを始めとした三人はポカンとして言葉を失ってしまった。
しかし、当事者であるフィナンシェはハッと我に返った。彼女の我慢は限界に達した。
「…は?…ちょっと!勝手に話を進めるのはやめていただける⁉わたくしは…」
「――…駄目ですっ!」
彼女が喋り始めるのとほぼ同じくして、ショコラがクレムとグラスの間に割って入った。物理的に……。
「お姉様はクレムお義兄様と結婚なさるんです!!お姉様がそうお決めになったんです‼お二人の邪魔はこのわたくしが絶ッ対に許しません!!」
ショコラはグラスの前に立ち塞がった。決して大きくはないその体ながら、両腕を目一杯に広げ姉と義兄の盾になって――。
彼は目を丸くして驚いた。……しかし、すぐに余裕の表情へと戻った。そして自身の胸に手を当てると、目の前の彼女ににこりと笑い掛けて会釈をした。
「――これは失礼、ご挨拶が遅れました。貴女は妹君の…ショコラ嬢、ですね?“私”が、貴女の未来の義兄ですよ。」
その笑みは爽やかで、柔らかそうな髪がそよぐ風に美しくなびく……。
ショコラは戦慄した。
『きゃーーーーッ!この方、言葉が全っ然通じていないわ……!こんな方がいらっしゃるだなんて……』
ショコラは心の中で絶叫した。その叫びはもちろん、黄色い声というものとは全くの別物である。そして顔面蒼白して思わず固まってしまった。
彼は、本物の未来の義兄とは別の意味で、凄かった。強心臓過ぎる。恐怖というか、感心すら覚えてしまう……。
だって、どう考えたって怖いではないか。結婚間近の婚約者がいる相手のもとへやって来て、その婚約者もいる目の前で相手の肉親に“自分が未来の義兄だよ”だなんて……。
正気の沙汰ではない。
「本日は何の連絡もせずに押し掛けてしまい、申し訳ありませんでした。今回はご挨拶までに。ではフィナンシェ嬢、また近い内にお会いいたしましょう。」
そう言い残すと、グラスは颯爽と立ち去って行った。その「後ろ姿」だけは、完璧である。……どうやら、『約束を取り付ける』という概念は持っていたようだ。……腐っても“侯爵様”なのだから、そんな事は当たり前か…………
現実逃避するように、どうでもいい事ばかりが頭に浮かんでは消えた。
岩のように固まったショコラは開いた口が塞がらない。その場から動けないままで、停止した思考を無理やり巡らせた。
『あの方……この結婚を壊すおつもりなのだわ!そんな事になってはいけない…。でもお義兄様にはお仕事もあるし、常にお姉様のお側に付いていらっしゃる事は出来ないわ……。それなら――…』
その時ショコラに、今までになく強い使命感が溢れて来た。
『私が!お姉様をお守りしなければ‼』
彼女は燃えた。そして心の中で、固くそう誓ったのだった。
――これまで屋敷の中でぬくぬくと育ってきたショコラは、自身への噂は別として、およそ「悪意」と呼べるものには出会った事が無かった。ほとんど他人と接して来なかったのだから、当然と言えば当然の事なのだが……
“グゼレス侯爵は危険人物である”――…
それは、彼女が“他人を警戒する”という事を知った、初めての瞬間であった。