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日曜のショッピングモール。吹き抜けの広場では、町のピアノコンテストが開かれていた。
子どもたちが順番に登壇しては、小さな手で鍵盤を叩き、
親たちはカメラを構えて拍手を送る。
育代と理恵は、上の階でドレスを選んでいた。
鏡越しに、母が興奮した声で言う。
「理恵、このワンピースすごく似合うわ!ステージでも映える!」
理恵は、ため息をひとつ。
「……これでピアノ弾くの?」
「もちろん。いつか大きなホールで弾くんだから」
その時、下の階からピアノの音が響いてきた。
育代はハッと顔を上げる。
エスカレーターの手すりから見下ろすと、
「飛び入り参加OK」の看板が立っている。
「理恵、出てみなさい」
「え? 今?」
「練習の成果を見せてあげましょう」
理恵は小さく肩をすくめて、受付カードを受け取った。
順番を待つ間、他の子たちの演奏が続く。
ミスしても、客席から「かわいい〜」と笑いが起きる。
育代は腕を組み、ひとりだけ真剣な顔だった。
「次の出場者は……黒川理恵さん。
演奏曲は『森のくまさん』です。」
客席から少し笑いが起きた。
「え、あの曲?」「かわいい〜」
育代は笑わない。
理恵は静かに椅子に座り、両手を鍵盤の上に置いた。
最初の音が鳴る。
正確なテンポ。きれいなタッチ。
でも、楽しくない。
あるひ もりのなか
音が硬く、ひとつひとつが重たい。
メロディは確かに「森のくまさん」なのに、
なぜか森の奥に陽の光が差してこない。
くまさんに であった
前の列で、音に合わせて手を叩いていた小さな子が、ふと止まった。
はなさく もりのみち
笑顔のまま、ピタリと動かない。
まわりの子どもたちも、次々に静かになる。
くまさんに であった
ただピアノだけが鳴っていた。
育代の手の中で、スマホのカメラがぶれている。
なぜか、息がしづらかった。
最後の音がポツンと落ちた。
一瞬の静寂。
拍手が、少し遅れて起きた。
みんな、何か言葉を探しているようだった。
育代は立ち上がって拍手した。
「すごい、理恵! 本当にすごいわ!」
まわりの親たちは、合わせるように軽く手を叩く。
理恵は母を見ずに、小さく会釈をする。
「……いつも通りだよ」
育代は微笑んだ。
何が良くて、何が悪いのか、
彼女にはまったく分からなかった。
ただ、自分の娘が誰よりも「特別」に見えた。
それだけが、確かな事実だった。
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「音は美しいものばかりじゃない。
ときには、不快な音の中にこそ真実がある。」
― 坂本龍一(インタビュー『音の中の哲学』より)
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