テラーノベル
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チェックアウトが済んだ部屋の清掃が始まった。この時間は七香は休憩となるため、空いた時間はカメラを片手にペンションの周りを散策することにしていた。
Tシャツとデニムに着替え、従業員用の建物の玄関から直接靴に履き替えて外に出た七香は、大きく背伸びをした。先ほど男性客に子供扱いをされたことが引っかかってはいたが、部屋にいては嫌な気持ちを引きずるだけだと思い、その気持ちを切り替えるためにも、こうして外に出たのだ。
夜には涼しさを感じた気温も、朝から徐々に上がり続け、蒸し暑さを感じる。にじみ出る汗をTシャツの裾で拭うと、ペンションの前を流れる小さな川に沿って歩き出した。底が見えるほど透き通った水に触れてみると、暑さを吹き飛ばすほどの冷たさを感じる。
その時、川からひょっこりと飛び出た石の上に、色鮮やかな小さなカエルが乗っているのが見えた。意外と言われるのだが、昔から虫や動物が好きな七香は嬉しそうに笑みを浮かべると、その場にしゃがみ込んでカメラを構えた。シャッターを切った瞬間、カエルは美しい放物線を描いて水の中に飛び込んだ。
その始終を写真に収めることが出来、更に満足度はあがっていく。満面の笑みを浮かべ、大きく鼻息を吐いたところで、突然背後から吹き出すような声が聞こえた。驚いた七香が勢いよく振り返ると、そこには先ほど七香を子供扱いをしたあの男が立っていたのだ。
途端に不愉快になった七香は彼に背を向け、再び川沿いを歩き始める。
「あっ、ちょっと待てよ」
「どうして待たなきゃいけないんですか。待つ理由がありません」
プイッと顔を背けた七香を見て、男性は頭を掻きながらため息をついた。
「これだからお子ちゃまは嫌なんだよ」
「はぁ……⁈ 嫌で結構。私だって、人を見下すような人とは話したくありませんから」
男性を無視するように、花や木々にカメラを向けていたが、男性は一定の距離を保ちながら、七香の後ろをついてくるのがわかる。
「……ついて来ないでください」
「別に。同じ方向なだけだろ? 自意識過剰」
七香はカチンと来たものの、まるで小学生のような物言いに呆れて両手を上げた。
「なーんだ、私のことを子供扱いしたけど、あなただって子どもみたいじゃない。あんな年上の女性と付き合ってるからもっと成熟した男性像を思い描いてたのに、なんだかガッカリしちゃった」
どちらかと言えば、大人の女性の手のひらで転がされているようにも見えるーー今は好きな人はいないけど、絶対にこういう自分を持っていないような、人に頼るしかないゆるいチャラ男だけは好きにならない。
「……付き合ってるわけじゃない」
「……そうなの?」
先ほどまでの威圧的な声色とは違い、どこか悲しさや寂しさが含まれた響きに、思わず立ち止まって振り返る。
緑の草と木々の中に立ちすくみ、俯きがちにポケットに手を差し込む姿はとても美しく見え、七香は彼に強烈に惹きつけられた。
「俺は好きだけど、あの人は縛られたくない人だからな……」
あぁ、今この瞬間を切り取って残したいーー七香は本能のままにカメラを構えると、シャッターを切った。
「あっ、勝手に撮るなよ」
男性は写真を撮られたことに気付いて文句を言い始めたが、それよりも七香は自分自身の行動に驚いた。衝動的にシャッターを切ったのは、これが初めてだったのだ。
「いや、よく見たらなかなかの被写体だなぁって思って」
しかしそれを認めたくなくて、なんとなく言い訳がましく答えたが、彼は満更でもない様子でニヤつく。
「何それ。俺がイケメンだって認めてんの?」
「……か、顔だけはね。今のところ中身はクズ男のイメージしかないし」
「まぁ当たってるかもな。昔からよく"見た目はいいのに、中身は残念な男"って言われてたし。じゃあ仕方ないから、俺の写真を撮るのを許可してやるよ」
「……また上から目線」
「はぁ? こんな許可、今まで誰にも出したことはないんだから、ありがたく思え」
「別にお願いしてないもん」
「おい、何か言ったか?」
「さぁ、空耳じゃないですかぁ?」
そして何事もなかったかのように、再び七香は川沿いを歩き始めた。
「写真部?」
「そうです。好きなものを撮ってるだけですけどね」
「何が好きなの?」
「花とか生き物、自然が好きです」
「カメラは自分の?」
一昔前の一眼レフだが、今でも人気のあるモデルらしい。
「父にもらいました。でも今欲しいカメラがあって、そのためにバイトをしてるんですけど……って、なんでまだついて来るんですか。早く彼女さんのところに行けばいいじゃないですか」
「今は仕事中だから外にいろって」
「あら、追い出されたんですか」
「そっ。で暇だなぁと思ってたら君の姿が見えて」
「暇つぶしなら別のところでやってください」
「君、名前は?」
会話のラリーが続かないことにイラッとした七香は、腰に手を当てて男性を睨みつける。
「唐突ですね。聞くならご自分から名乗ってください」
「えっ、従業員なのに客の名前も知らないの?」
「アルバイトですから、私」
「あぁ、そっか。なるほど。俺は|菱川《ひしかわ》|昴《すばる》。そっちは?」
名前を知られたくなくてわざと言ったのに、あっさりと彼が答えてしまったので、言わざるを得ない空気になってしまう。唇を噛み締めてから、諦めたようにため息をついた。
「……|島波《しまなみ》七香です……」
「七香ね。よし、覚えた。暇な時はよろしく」
「うわぁ、すごく嫌ですぅ」
七香は眉間に皺を寄せ、苦笑いをしながら答える。すると昴も同じような表情を浮かべて七香を見た。
「本当に可愛くないな」
その時、昴のスマホが音をたてて鳴り始める。画面を見た彼の目が少しだけ柔らかくなったような気がして、七香は驚いたように目を見開いた。
きっと彼女からに違いないーー昴は満面の笑みで電話に出ると、子どもみたいに可愛く頷きながら、最後に一言、
「すぐに戻る」
と口にした。
こんな顔もするんだーー好きな人からの電話だから当然だと思いながら、不思議と苛立ちが一瞬で吹き飛んだ。
「彼女さんですか?」
「そう。じゃあ俺は戻るわ。暇つぶしに付き合ってくれてありがとな」
七香の返事になど興味がないのだろう。まるで飛びたつ鳥のような軽い足取りで、昴は颯爽とコテージに向かって走り出した。
なんて騒がしい人かしらーー彼がいなくなり、辺りは静けさに包まれる。川のせせらぎ、鳥のさえずり、吹き抜ける風の柔らかさが、辺り一面に広がっていた。
七香は再びカメラを構えたが、ふと先ほどの写真が気になってしまう。本能的に、衝動的に映してしまった彼の姿。画面に映る昴を見て、何故か七香の心臓の音が速くなるのを感じた。
まるで子どもみたいに屈託なく笑う姿。恋はこんなふうに人を変えてしまうのかーーそれは七香にとって大きな発見だった。
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#片思い