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月影は、その文書を三度読んだ。
画面に表示された公式通達は、いつもと同じ書式、同じフォント、同じ行間で構成されている。違うのは、そこに含まれる単語だけだった。
「意味」
それはまだ明確に禁止語とはされていない。
だが、注意喚起欄に小さく、慎重な言い回しで記されていた。
業務上不要な「意味付与」「主観的解釈」「価値判断を伴う言語化」は、運用の健全性を損なう可能性があるため、使用を控えること。
控える、という言葉が選ばれていること自体が、すでに異常だった。
これまでこの組織は、言葉を制限することはあっても、意味そのものに触れたことはなかった。
意味は、各利用者の内側に自然に生じる副産物であり、管理対象外だとされてきたはずだった。
月影は画面を閉じ、椅子にもたれた。
胸の奥に、鈍い重さが落ちる。
――始まった。
それは確信だった。
理屈でも、予測でもない。
彼は、自分がかつて止められなかった案件を思い出していた。
あのときも、最初は些細な調整だった。
「誤解を避けるため」
「効率を上げるため」
「余計な感情を排除するため」
そうして一つずつ言葉が削られ、最後に残ったのは、正しさだけだった。
正しさは、誰も責任を取らない。
月影は、デスクの引き出しから小さな端末を取り出した。
公式のものではない。
記録にも残らない、古い仕様の通信機。
そこに保存されているデータがある。
未選択。
システム上、最適解が算出されているにもかかわらず、意図的に選ばれなかった履歴。
理由は書かれていない。
だが、そこには必ず、人の迷いがあった。
彼は、そのデータを誰かに渡そうとしていた。
いや――
正確には、「渡してしまえば楽になる」ことを知っていた。
共有すれば、判断は分散される。
責任も薄まる。
この異常を、自分一人で抱え込まずに済む。
だが、同時にわかっていた。
渡した瞬間に、未選択は「材料」になる。
検証され、分析され、改善案に変換される。
迷いはノイズとして処理され、やがて消える。
それは、過去に何度も見てきた流れだった。
月影は端末を握ったまま、目を閉じる。
頭の中に、いくつかの顔が浮かんだ。
花子の、言葉を持ったあとも行動を変えなかった横顔。
津川の、官僚としては誤っていると自覚しながらも、踏みとどまった声。
葉芹の、善意を否定されて戸惑う沈黙。
そして――
名前を交わしただけの、元・利用者の彼女。
生活感のある、あまりにも普通な時間の中で、最初の違和感に触れた瞬間の、あの一瞬の表情。
誰も、英雄ではなかった。
誰も、完璧な判断などしていなかった。
それでも。
月影は目を開け、端末の操作画面を閉じた。
渡さない。
それは最適ではない選択だった。
合理性も、組織的正解もない。
ただ、人が人でいるための、ぎりぎりの線だった。
彼は、未選択を保存したまま、システムに一つだけ入力を行う。
備考欄。
公式には誰も読まない場所。
そこに、短い一文を残した。
「これは失敗ではない」
送信音は鳴らない。
記録にも残らない。
それでも、確かにその選択は実行された。
月影は立ち上がり、窓の外を見る。
街はいつも通りだった。
何も起きていない。
だからこそ、これからも、何も起きないふりをしたまま、世界は進んでいくのだろう。
――最適を選ばない者たちを、静かに排除しながら。
月影は、その流れに抗わなかった。
だが、流されることも選ばなかった。
それが、彼にできる、唯一の選択だった。