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見捨てられた牢獄のような無骨な一室だ。名も知れぬ石工によって切り出された石灰岩が積み上げられている。床材の秦皮は黒ずみ、歩けば苦しそうに軋む。その仄暗い雰囲気を少しでも緩和させようと、華やかな花瓶に麗らかな花を飾ったり、派手過ぎない織物や編み物で壁や床が飾り付けられたりしていたが、不気味さはむしろ際立っている。
部屋には二人の人物がいる。一人は使い魔教える者だ。使い魔は人型になっているが頭から真紅の絨毯を被ったような奇妙な姿だった。部屋の飾り付けが無ければ廃墟に潜む血に塗れた悪霊の如きだっただろう。もう一人はノンネット。真っ直ぐに切り揃えられた茶色の前髪の下で、栗色の瞳は僅かに眠気を帯びている。普段の厳めしい護女の黒衣ではなく、聖性から離れた少女の飾り気のない衣だ。
二人は板切れを組み合わせたような粗末な机を挟んでおり、机上には大小様々な形の積み木のような木片が並べられていた。手紙はノンネットの服の中に隠れて様子を窺っている。
小さな窓から射す日の明かりは赤みを増し、ガレインの寂しい夜の予兆が山稜のそばに現れ始めている。
「では、霊と魂は別物なのですか?」ノンネットは卵のような模型を両手で掴んで捻りながら言う。
卵模型は二つに分かれ、中には木目のような層になった円が描かれていた。
「そう捉えることもできるな」教える者はよく通る平坦な声で答える。
「同じとも言える、と」ノンネットの言葉に溜息が交じる。そうして天井にまで届きそうな教える者の頭らしき辺りを見上げる。「どうにも教える者師の教えははっきりとしませんね。どちらでもないとかどちらでもあるとか。要領を得ません」
教える者の声色は淡々として変わらないが、頭上から声が降り注いで来るというだけで威圧感がある。「肉体ではない、という意味では霊も魂も同じだ。魂ではない、という意味では霊も肉体も同じだ」
「肉体までも!? ますます訳が分かりません。もしかして拙僧をからかっていらっしゃいますか?」
「どこで分けるかに過ぎんということだ。それに、そもそも分かれていると言えるか?」
ノンネットの声がか細く縮む。「それは、もう、少なくとも霊魂と肉体は分かれているでしょう?」
「そうか?」それだけ言って、教える者はノンネットを観察するように見つめる。目は見えないが、布の顔の垂れ下がりの薄暗闇がノンネットの方を向いている。
「そ、それはもちろん、拙僧の肉体の中に霊魂が入っているのでしょうが、死せば別々に切り分けられることができる以上……。肉体も切り分けられる、とでもおっしゃいそうですね」
教える者が隙間風のような笑いを漏らす。「中々優秀ではないか。……さあ、そろそろ日が沈みそうだ。反発的ながらも熱心な生徒を持つと時間を忘れてしまうな。貴様は聖女の所へ行くのだろう? 魂を浄化するという聖火の種火を届けるために」
「何故それを?」ノンネットは不審な眼差しを教える者に向ける。
「教える者は教わることも得手としているのだよ」
「もしかして拙僧からも教わっていますか?」その瞳は最早教師ではなく、魔性に向けられるものだ。
「貴様は優秀な生徒だな」
「貴方ほどではないようですが」
教える者は不敵な笑いを残し、床を滑るようにして部屋を出て行った。
「本当に分かったの? あのひとが何を言っているのか」
グリュエーにはとんと分からなかった。魂さえも切り分けられるグリュエーからすれば、もしも肉体と霊と魂が同じなら、霊体のみならず肉体までも切り分けられることになってしまう。
教える者が立ち去り、しばらく扉の前で外の様子を窺ったノンネットに用心しいしい取り出されたグリュエーは机の上に置かれた。
「どうでしょうね? 分かったような、分からないような」
グリュエーがくすくすと笑い、厳めしい声を絞り出す。「分かったとも言えるし、分からないとも言えるのだな」
ノンネットもつられて笑みを零す。「そういう冗談を言うのですね」そして瞳を伏せて続ける。「本当に、連れ去られたわけではないようです」
「まあね。がっかりした?」
「いいえ。元々そういう節はありましたし。でも、救済機構は貴女を取り戻そうとしている。次代の聖女として迎えるために」
「どうだかね。それに、そんな話をしに来たわけじゃない。ノンネットも早く救済機構から逃げた方が良い」
ノンネットは驚いた様子で数歩下がり、しかし真剣な表情で手近な椅子に座る。
「今のは冗談ではありませんよね?」
「うん。本気だよ。教えないといけないことがある。信じがたいかもしれないけれど、まずは聞いて」
そうしてグリュエーはクヴラフワの呪いをかいつまんで説明し、救済機構がその呪い除けに使っていた偶像、肉体的には生きていたという、魂の抜け殻となった元護女ネガンヌのことを話す。
「グリュエーが知ってる顔はネガンヌだけだったから、護女に限ったことではないのかもしれないけど、魂を抜かれて、良いように利用されるなんて嫌でしょ?」
ノンネットは不思議そうに手紙を見つめ、僅かに首を傾げる。
「グリュエー?」
「うん? 何? ……ああ、本名だよ。グリュエーは。瑞々しいは護女の実り名。第五圏の霊的果実もそうでしょ?」
「そうですが。平凡なので、てっきり本名かと。何か特別な扱いをされているのかと。あ! すみません! 平凡などと!」
「別にいいけど。これからはグリュエーって呼んでよ」
「そうですね。分かりました」とノンネットはそれだけ言った。
暫しの沈黙の後、「それで? 信じる? グリュエーの話」とグリュエーは尋ねた。
「ええ、もちろん」
「え!? 本当に!?」そう言ってグリュエーは薄っぺらい体で精一杯飛び跳ねて喜びと驚きを表現する。「良かった。どうやって説得するか、手練手管を考えてたんだけど要らなかったね。話が早くて助かるよ。それじゃあ、どうする? グリュエーたちについてくる? 自力で脱出できそうにないなら、きっとみんな助けてくれると思うけど」
「ですが、護女をやめるつもりはありません」
「は?」と思わずグリュエーは強い語気で疑念の塊のような声を吐き出した。「え? 何? どういう意味? グリュエーの話、信じてくれたんだよね?」
「はい。交流は少なくも長い付き合いですし、貴女が拙僧にそのような嘘をつくとは思えません」
「じゃあ、何で?」グリュエーの問いにノンネットは沈黙で答える。故にグリュエー自身が答えを探す。「……そんなに聖女になりたいの?」
ノンネットに睨みつけられ、嫌味めいたことを言ってしまったとグリュエーは気づく。
「むしろ、貴女が現れた時から、心の奥底の方では聖女になることを諦めていました。霊的素質も身体規定も完璧な貴女に敵うわけがない、と」
「それだけだよ。それ以外、全部ノンネットが一番だったんでしょ? 霊的素質とか身体規定とかそんな生まれつきのもので聖女が決まるの?」
「いいえ、むしろこれまでの聖女はさほど霊的素質も身体規定も優秀とは言えませんでした。いずれも突出した能力を持つ人物ではありましたが」
グリュエーにとっては一周まわって意外な答えだった。
「そ、そうなの? じゃあ何でそんな基準があるの?」
「何でも何も聖女に相応しい霊体と肉体については規定があり、貴女の知る通りです。ただ、単に、貴女は歴代聖女の誰よりも突出している。それだけのこと。そもそも身体規定について分かっているのですか?」
グリュエーはもごもごと言葉を濁す。教わるのは苦手なのだ。特に救済機構の空疎な教えなどは。
「身長、体重など序の口です」とノンネットに教えを授かる。「髪の太さ、首の太さ。虹彩の色。爪の厚さ。黒子の位置。何もかもが完璧なのです、貴女は。第一聖女ミシャの予言にある真の聖女。救済の乙女にこの地上を引き渡す最も尊い聖務を負う最後の聖女」
ノンネットの潤んだ瞳から逃げるようにグリュエーは後ずさる。ノンネットが何を思っているのか知らないが、ずっと昔から出現を、しかもその特徴を完璧に予言されているなんて不気味さしか感じない。
「それを知った時、拙僧が聖女になれる可能性など万に一つもないと察しました。正直に言いましょう。貴女が出て行った時、悲しみと同時に喜びも感じました。ぬか喜びでしたが。聖女アルメノンがあれほど執着するのです。もう貴女の他にはあり得ないのでしょう」
グリュエーは自分の言葉が嫌味になる可能性などかなぐり捨てて、言いたいことをぶつけることにする。「そ、それならもういいじゃん。なおさら。聖女になれないなら。護女をやめたってさ」
「聖女を目指して頑張っているふりも疲れました」ノンネットにはグリュエーの言葉が届いていないようだった。「予言の伝える救済の乙女降臨もあと一年ですし、次の次はありえないでしょう。やはり、最後なのです。貴女が最後。……考えてみれば、貴女が最後なら他の護女は何のためにいるのでしょうね? ああ、つまり、それが護女ネガンヌの話に繋がるのですね。拙僧たちにも何かの使い道があるということですか」
見る見る気落ちしていくノンネットを励ます言葉を探すが見つからない。
「ねえ、ノンネットって……」
「貴方にはその価値が分からないのかもしれませんが。聖女どころか、護女に注がれる視線に私は魅入られたのです」ノンネットは立ち上がり、乱暴に手紙を掴む。「さあ、もう良いでしょう。ユカリさんと共に好きなだけ抗いなさい。聖女に、予言に、宿命に」
ノンネットが手紙を小さな窓から放り出そうとし、グリュエーの魂は何とか手の中から逃れようと暴れる。
「待って! 待ってよ! 本当にそんな理由で護女がいるなら聖女にするための教育を受けさせる必要なんてないでしょ?」
「貴女が護女ネガンヌの話を持ってきたのではないですか!」
「そうだけど。グリュエーならこう考える。救済機構も予言を信じ切れていないんだって。救いの乙女がやって来なかったら、結局今の体制を続けるしかないんだし。そうなれば最後ではない聖女をずっと用意しておかないといけない」
「救済機構が、聖女が嘘をついていると」
「そうだよ。それにノンネットもね。聖女を目指して頑張ってるふり? 嘘だね。聖女なんて目指してなかったグリュエーだから分かる。護女の中で一番頑張ってたのはノンネットだよ」
ノンネットは膝から崩れ落ちそうになり、窓枠に縋りつく。声も漏らさず、ただじっと堪えるように佇む。グリュエーの手紙の文字が滲む。