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第十四章 安心という名の日常
「あれ……俺の衣装は?」
音楽番組の衣装合わせ。
ラックに掛けられた衣装を一つずつ確認していくスタッフの手が、俺の前だけ素通りしていった。
「翔太のは……あれ?」
一瞬だけ、空気が止まった気がした。
スタッフが手元のリストを何度も見返す。
「……あれ、名前、入ってましたっけ?」
「七人分、ですよね?」
「はい、七人です」
そう答えた声が、妙に自然で、誰も疑問を持たなかった。
節分前の放送に合わせて、メンバーは鬼に扮した衣装を着る予定だった。前日から体調を崩している佐久間を除いて、数は合うはずだったのに。
「すみません!今すぐ確認します!」
慌てた声。
周囲では誰かが笑って、誰かがスマホを構えて、いつも通りの朝が流れている。
世界から、俺一人だけが抜け落ちたみたいだった。
弾かれた俺の存在を、ちゃんと分かっているのは、きっと蓮だけだ。
それでもいいかも、なんて思った。
誰にも気づかれないなら、なかったことにしてしまえばいい。
結局、スタッフが慌てて用意した桃太郎の衣装に袖を通すことになった。
インナーは袖が少し長く、陣羽織は肩が余ってずり落ちた。
結び直しても、どこか隙間ができる。
「クオリティーやばくない?雑www」
「似合ってるよ………っ……翔太」
そう言いながら、亮平は一瞬だけ衣装の袖口を見た。
その瞳が、揺れた気がして、俺は気づかないふりをした。 鏡に映る自分は、どこかちぐはぐで、それでもちゃんと“仕事”の顔をしていた。急拵えの誂え品なのだから、しっくりと来ないのは、仕方がないと自分に言い聞かせた。
写メを撮って、蓮に送る。
翔太📩「鬼退治www」
すぐに既読がついた。
返事はない。けれど、それだけで胸の奥がふっと軽くなる。 既読がつくまでの、ほんの数秒。
無意識にその時間を数えていたことに気づいて、スマホを伏せた。
家で過ごす時間は、少しだけ減った。
大好きだったサウナにも、また通い始めた。
会員制のサウナに久しぶりに行くと、〝会員登録されますか?〟なんて聞かれて、少しだけムッとしてしまった。
まぁ、二ヶ月ぶりのサウナだから無理もないかな……
サウナ服に着替えて、個室に入る。
目の前の姿見を無意識に避けている自分がいる。湯気が立ち込める室内に、言いようのない不安が押し寄せた。
扉のガラス戸に映る自身の姿が、ほんの一瞬だけ、薄くなった気がして、呼吸が苦しくなると、慌てて水風呂に飛び込んだ。
「ちょっと急ぎすぎたかな……」
日常を、少し欲張りすぎたのかもしれない。
ゆっくり、自分らしくで大丈夫……きっと蓮なら、そう言ってくれる。
呼吸を整えて、数回その作業を繰り返すと、いつものような快感を味わえた。
新しいことも始めた。 蓮が戻ってきた時のために、料理教室に通い始めた。 蓮のために時間を使うことで、心が穏やかで、少しだけ落ち着く気がした。
包丁がまな板に当たる音が、規則正しく揃っている。
講師の穏やかな声。
「今日は誰に作るんですか?」なんて、何気ない質問。 みんな、帰る場所が決まっているみたいだった。
それを羨ましいとは思わなかった。
皆んなと同じ。
俺も大切な人のためにここに居る。それは同じだから。
少し離れたところから眺めていた。
皆んなと違うのは、
ひとりで、彼が帰る場所を守っている
ただそれだけだ――
蓮の真っ黒なエプロンを付けて、少し大きいけど……
ふわっと香った柔軟剤の香りが、まだ、蓮が離れてからそう時間が経っていないのだと思い知らされた。
長袖を肘の辺りまで捲って、料理を作る蓮が思い出されて、胸がキュッと縮んだ気がした。
忙しく日常を過ごしていると、不思議と心が満たされていった。
寂しい気持ちも勿論あるけれど……
それでも、ちゃんと呼吸はできていた。
部屋の掃除もちゃんとした。
朝はカーテンを開け、太陽の光を浴びた。
夜は帰宅と同時にカーテンを閉める。少しの隙間もないように、ピッタリとカーテンの布を合わせた。
戸締りを確認して、電気を消して、もう一度だけ振り返る。
今日が、ちゃんと終わることを確かめるみたいに。
それでも、寝室の掃除だけは出来なかった。
あの場所に、あってはいけない大事な物があるような気がしていたから……
次の日の予定を確認して、目覚ましをセットする。 その音を、頭の中で想像してみる。
ちゃんと、起きられるだろうか。
特別なことは、何もない。
それが、少しだけ安心だった。
それでも――
明日が来ること自体は、悪くないと思えた。
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花凛しょぴ💙は本当に健気で可愛らしくて、それでいて恥ずかしがり屋で内気で応援したくなる🥺🥺