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草原草原

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草原草原

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第8話、読み終わりました。副社長の会話の巧みさに背筋が冷えました。「嘘は一つもなかった。全部、本当のことだった。それなのに、手の中に何も残っていない」――この一文が、あの人の本質を突いていて、ぞわっとしました。堂島常務も「読めなかった」のが逆に不気味で。最後、社長が「泊まりだ」と言った瞬間の緊張感、たまらなかったです。この二人で伊豆に行くのか…続きが気になりすぎます。
「ここ、いいかな」
社長が取引先との会食で外に出る日だけ、私は二階の社員食堂に降りる。
窓際の端の席。日替わりの麻婆丼に唐辛子を足していた私の隣に、紺のカーディガンが座った。
副社長、鷹宮貴之。
トレイの上には、かけうどんと、小さな稲荷寿司が二つ。役員フロアには専用の食堂があるのに、この人は週に何度か、わざわざ二階まで降りてくるのだと、まどかが言っていた。
周りの社員たちが、ちらちらとこちらを見ている。
社長秘書と、仏の副社長。噂の材料が、また一つ増えた。
「辛いのが好きなんだね」
「……はい」
「怜くんは、辛いのがだめでね。子どもの頃、法事の席でわさびを丸ごと食べて、泣かなかったけど、一時間口をきかなかった」
副社長は、うどんに七味を少しだけ振った。
一本の線。
「野々村くんのことは、残念だったね」
箸を持つ手が、少しだけ止まった。
「通報窓口は、私の管掌なんだ。コンプライアンス部も、総務もね。だから今回のことは、私にも責任がある」
一本の線。
「窓口の担当者にも、一人ずつ話を聞いたよ。君の通報は、きちんと届いていたからね」
一本の線。
副社長は、湯気の向こうで穏やかに目を細めた。
「瀬名さんは、怜くんの隣にいて、つらくはないかい。あの子は、言葉が足りないから」
「つらくは、ありません」
「そうか。それならいい」
それからしばらく、副社長は食堂の天井の照明の話をした。昔はもっと暗くて、社員はみんな煙草を吸いながら食べていた。今の明るさにしたのは、自分が総務を見るようになってからだ、と。
全部、一本の線だった。
稲荷寿司を一つ残して、副社長は立ち上がった。
「また、隣に座らせてもらうよ」
カーディガンの背中が、食堂の人混みに紛れていく。
麻婆丼が、すっかり冷めていた。
私は、今の会話を頭の中で巻き戻そうとした。
通報窓口の話をしていた。責任がある、と言っていた。担当者に話を聞いた、とも。
それで、結局。
通報がなぜ野々村に漏れたのか。誰が漏らしたのか。副社長は、それについて何と言っていたのだったか。
思い出せなかった。
何も言っていなかったのか、言っていたのに覚えていないのか、それさえはっきりしない。
嘘は一つもなかった。全部、本当のことだった。
それなのに、手の中に何も残っていない。
食堂の窓から、四月の終わりの日差しが差し込んでいた。私はなぜか、少し寒かった。
*
月次役員会は、四十二階の大会議室で開かれる。
楕円の長いテーブルに、社長、副社長、常務、各本部長。壁際の椅子に、秘書たちが並ぶ。私の席は、その一番端だった。社長の背中が、斜めに見える位置。
資料の十二ページ目で、社長が手を止めた。
「鷹宮リゾート。客室稼働率、一月八十五パーセント、二月八十五パーセント、三月八十五パーセント」
社長の声は平らだった。
「同業の全国平均は、六十五前後だ。二十ポイント高い。三か月、一ポイントもぶれずに」
ぶれずに、という言葉が、少しだけ耳に引っかかった。
テーブルの中ほどで、鷹宮リゾートの大河内社長が、丁寧に頭を下げた。五十代半ば、日焼けした頬に、きちんと整えた口ひげ。
「ありがとうございます。おかげさまで、伊豆も箱根も、春休みは連日の満室でございまして」
「一月と二月もか」
「はい。冬の温泉は、根強い人気がございます」
「それにしても、三か月同じ数字というのは」
大河内社長は、資料の上で両手を組んだ。
「現場の努力の結果です」
言い切った瞬間、彼の唇の右端が、一度だけ小さく引きつった。笑顔をつなぎ止めようとして、糸が一本切れたみたいに。
――ぶれた。
私は膝の上のボールペンを、二回鳴らした。
カチ、カチ。
会議室の空調の音に紛れるくらいの、小さな音。
社長の背中が、ほんのわずかに動いた。聞こえたのだ。
「大河内社長」
社長が口を開きかけた、そのときだった。
「坊ちゃん」
テーブルの向こう側で、大きな体が椅子をきしませた。
常務取締役、営業統括の堂島剛三。ゴルフ焼けした太い手を、テーブルの上に投げ出している。上着から、甘ったるい葉巻の匂いがした。
「数字ってのはな、現場が作るもんだ」
会議室の空気が、堂島常務のほうへ傾く。
「大河内は、伊豆の旅館の倅だ。泊まり屋の現場を、俺たちの誰よりも知ってる。その男が三か月、汗かいて部屋を埋めてきたんだ。机の上で数字を眺めて、揃いすぎだの何だの言うのは、現場に失礼ってもんだろう」
私は、常務の顔を見た。
輪郭は、一本の線のままだった。
「俺はな、大河内を信じてる」
一本の線。
「リゾートは、これから鷹宮の稼ぎ頭になる。俺はそう思ってる」
一本の線。
全部、この人の意見だ。
信じている、思っている。それは、本人がそう思っている限り、本当のことになる。嘘でも本当でもない、ただの声の大きい感想。
私の目は、感想を裁けない。
私は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
読めません、の合図。
社長の背中が、また少しだけ動いた。
会議室の何人かが、堂島常務の言葉にうなずいている。副社長は、何も言わずに資料をめくっていた。
「……リゾートの件は、次回までに追加の資料を出せ」
社長が言った。
「稼働率の日別の内訳と、予約の経路別の数字だ」
「かしこまりました」
大河内社長が、深々と頭を下げる。その頭の向こうで、堂島常務の片頬が、わずかに緩んだ。
根拠がない。
私がノックを二回鳴らしただけでは、氷の社長でも、子会社の社長を問い詰めることはできない。この会議室では、私の目は、まだ何の証拠にもならないのだ。
*
役員会が終わると、私は社長について四十三階に戻った。
社長室の扉が閉まるまで、社長は一言も話さなかった。
「大河内は、どこで嘘をついた」
執務机に資料を投げ出して、社長が言った。
「現場の努力の結果です、のところです。唇の右端が、引きつりました」
「堂島は」
「読めませんでした。全部、常務ご自身の意見でした。嘘ではありません」
「嘘をつかずに、庇ったか」
「はい。たぶん、わざとではないと思います。常務は、本当に大河内社長を信じているように見えました」
社長は窓の外を見ていた。午後の日差しの中で、八重洲の通りが白く光っている。
「それと」
窓を向いたまま、社長が言った。
「先週、食堂で副社長と昼を食べたそうだな」
「……隣に、座られただけです」
「柏木から聞いた。給湯室でも、もう話になっている」
社長は、しばらく黙っていた。
「私が外に出る日も、昼は社長室に取っておく。食堂には降りなくていい」
「それは、噂の材料を増やすためですか」
「君に、昼を抜く理由を作らせないためだ」
一本の線。
予定表の赤ペンの一行を思い出した。昼食を抜くのは、この人のほうなのに。
「日別の内訳を出させても、作り直した数字が出てくるだけだ」
「……はい」
「数字が嘘をついているなら、数字の外を見るしかない」
社長は、机の上の電話を取った。
「柏木。今週末の予定を、全部空けろ」
受話器を置き、私のほうを向く。
「伊豆に行く。君も来い」
「出張、ですか」
「客としてだ。身分は隠す」
社長は、私の机の上の予定表に、自分の万年筆で一行書き足した。
「――泊まりだ」