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そして、次の日の朝
俺は一睡もできなかった。
夜が明けても、瞼の裏には兄さんの顔が焼き付いて離れない。
昨日の出来事が、まるで悪夢のように何度も脳裏を巡り、その度に心臓が締め付けられるような痛みが走った。
それはきっと、いや、間違いなく
これまで兄さんに寄せていた絶対的な頼が、根底から揺さぶられたからだろう。
その信頼が裏切られたかもしれないという底なしの恐怖と絶望感は
計り知れないほど俺の身体に重くのしかかり
俺はただ一人、この暗く冷たい部屋の中で
己の心と必死に戦い、自分の中で消化するしかなかった。
そんな絶望の淵に立たされていた、その時だった。
部屋のインターホンが、けたたましく鳴り響いた。
……正直、今は誰にも会いたくない。
この感情の渦中に、誰かの声を聞く気力も
顔を見る余裕もない。
そう思って、居留守を使おうと息を潜めたのだが
それでもインターホンは執拗に、何度も何度も鳴らされ続けた。
ついには、ドンドンと、まるでドアを壊すかのような乱暴な音まで聞こえ始めた。
こんな朝早くから、一体誰だ?
そしてこの、尋常ではない呼び出し方。
まさか、あの人じゃないよな……?
嫌な予感が、胃の腑の底からせり上がってくる。
重い体をなんとかベッドから起こし、鍋のようにずっしりとした足を引きずりながら玄関へと向かった。
心臓がドクンドクンと不規則なリズムを刻む。
恐る恐る、ドアスコープから外を覗き込むと
そこにいたのは、血相を変え、息を荒げた兄さんの姿だった。
兄さんの姿を見た瞬間
俺の心臓は、まるで誰かに鷲掴みにされたかのようにドクンと大きく跳ね上がった。
こんなにも焦り、動揺しきった兄さんの顔を見るのは、生まれて初めてのことだった。
いつも明るく、朗らかな笑顔を絶やさない兄さんが今日は明らかに、動揺している。
その表情は、普段の彼からは想像もできないほど硬く険しい。
慌ててドアを開けると、兄さんは荒い息を吐きながら真っ直ぐに、そして真剣な眼差しで俺を見つめた。
その瞳の奥には、何かを訴えかけるような切詰まった光が宿っている。
「楓、話があるんだ」
兄さんの口から紡がれた言葉は、重く、沈んでいた。
何が言いたいのかは分からなかったが、今の俺にはその言葉を受け止める心の余裕がなかった。
「悪いけど、兄さん…今、疲れてるんだ」
兄さんの言葉を遮るように、俺は冷たく言い放った。
これ以上、兄さんに関わって欲しくない。
今、その顔を見たくない。
そんな拒絶の想いで、俺の心はいっぱいだった。
だけど、兄さんは一歩も退かなかった。
その場に立ち尽くし、俺を真っ直ぐに見つめ返す。
「ちょっとだけでも話を聞いてくれ」
「だから……」
俺の拒絶的な反応に構うことなく、兄さんは言葉を続けた。
「楓にとって大切な話なんだ。お願いだから、聞いてくれ」
その声には、懇願するような響きが含まれていた。
……大切な話
その言葉が、俺の心に妙に引っかかった。
疲弊しきった心に、微かな好奇の波紋が広がる。
「……っ、わかった」
小さく、ほとんど呟くように答えると
兄さんはホッとしたような顔を見せたあと
「ありがとう」と、力なく微笑んだ。
その表情は、どこか痛々しい。
そして、兄さんをリビングへと通した俺は、ソファに深く腰掛け
正面に座る兄さんを真っ直ぐに見据えた。
部屋には重苦しい沈黙が流れ
その静けさが、かえって俺の心を締め付ける。
しばらくの沈黙の後、兄さんが、重苦しい口調で語り出した。
「お前が仲良くしてる、犬飼さんいるだろ?」
その言葉に、俺の心臓が再び跳ねる。
兄さんは続ける。
「彼とは今すぐ離れた方がいい」
「は?」
唐突すぎる言葉に、俺は理解が追いつかない。
「なんならここを引っ越して…そうだ、店も出禁にした方がいい」
「いや…唐突すぎて、意味がわからないんだけど」
突然の、あまりにも一方的な言葉に、俺は呆然とした。
理解できずにいる俺に対し、兄さんは真剣な表情で、諭すように話し始めた。
「あの人とさっきすれ違ってな、ちょっと部屋に入れてもらってお茶してたんだけど、そのときに、刺青が見えたんだよ」
「い、刺青って……背中の?」
俺が恐る恐るそう聞くと、兄さんは逆に問い詰めるような視線を向けてきた。
「楓、まさか知ってたのか?」
「あっ、うん…だいぶ前から」
俺の正直な答えに、兄さんの顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……うそだろ?なんで言わないんだよ」
「そ、それは…その、今まで黙ってて、ごめん」
俺が謝ると、兄さんは深く重いため息をつき、頭を抱えて頂垂れてしまった。
その肩は、絶望に打ちひしがれたかのように小さく震えている。
そして何かを深く考えるように眉間にシワを寄せ、苦しげな声で言った。
「あの人はただの客であり、気が合うだけの友達なんだろ?だったらさっさと縁を切るべきだ」
「そ、それは違うよ!もう、この際だから言うけど……」
俺は、兄さんの言葉を遮るように、意を決して告げた。
「俺…仁さんと付き合ってるんだ」
その瞬間、部屋の空気がまるで氷点下まで凍りついたかのようにシンと静まり返った。
沈黙が、耳鳴りのように響く。
兄さんの表情は、驚愕と絶望に染まり、その顔はみるみるうちに青ざめていく。
沈黙の中、兄さんが震える声で尋ねてきた。
「……いつから?」
「..結構、前かも」
俺は、兄さんの視線から逃れるように、俯きながら正直に答えた。
すると兄さんは急に立ち上がり、俺の元まで近づくと無言で俺の肩に手を置いてきた。
その手は、冷たく、微かに震えていた。
「楓、今すぐ別れるべきだよ」
その言葉を聞いた瞬間
怒り、悲しみ
理解されない苛立ちが、一気に噴き出す。
「だから最初言っただろ、怪しいって」
「ち、違うよ!仁さんは確かに元ヤクザだけど、本にいい人で…」
俺がそう言いかけたところで
兄さんはそれを遮るように「楓!」と、声を荒らげてきた。
その声にビクッとして目を合わせると、兄さんの瞳は俺を射抜くような強い光を宿していた。
「楓はあの人のことをいい人だって思ってるかもしれない。でも、元と言えど、あっち側の人間なんだぞ?」
「あっち、側…」
兄さんの言葉が、俺の心に深く突き刺さる。
「人だって何人も殺してるかもしれない、前科だってあるかもしれない」
「じっ、仁さんはそんな人じゃないって…!だって、仁さんは俺のこと何回も助けてくれて…命の恩人なんだよ……っ?」
「お祭りの時、巴くんにだって優しかったし、それは兄さんだって見てたんだから分かるでしょ…?」
俺は声を荒げながら、必死に仁さんを擁護した。
しかし、兄さんは冷静な態度を崩さず、冷徹な声で言った。
「酷いこと言うようだけど、それも全部お前に気に入られるための罠かもしれないだろ?」
「わ、罠なんて……」
「相手はヤクザなんだ。足を洗ったなんて関係ない。あの人と俺らは住む世界が違うんだ」
そう、兄さんが言ったとき
俺の中で何かがプツンと音を立ててはじけ飛んだような気がした。
理性が吹き飛び、感情が剥き出しになる。
「なんで……兄さんこそ、仁さんのことなんも知らないじゃん、兄さんに仁さんの何がわかるっていうの……?」