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#恋愛
ばたっちゅ
20,605
83
meyu0530
198
見慣れない照明に照らされた、血色の悪い腕を見つめると、小さなため息が漏れる。
智美さんが持っていたのはおそらく硫酸で、間一髪のところで全身に浴びるのを防ぐことができた。しかしながら智美さんは片腕に硫酸を浴びてしまい、応急処置のあと病院へ。幸い私にはかからなかったものの、気付かないで放置すると危険な薬品であることもあり、念のためと病院を訪れていた。
まさか伊織さんの勤め先に、こんな形でお世話になるなんて……。
今日あった一連の出来事に、まだ気持ちが落ち着かない。処置室で一人時間を持て余していると、ノックと共に扉が開いた。
入って来たのは伊織さんで、その表情はどこか疲れている。
「ごめん、待たせて。大丈夫?」
「ううん、私は大丈夫。智美さんは?」
「ああ、軽い化学熱傷で済んだよ。しばらくは痕が残ると思うけど、問題ない。治療は他の先生に任せてある」
「そっか……よかった」
「それで――」
伊織さんの呟きと共に、扉の向こうからもう一人の気配を感じる。視線を向けると、見覚えのある人物が立っていた。
「え……院長先生……?」
「すまないね、突然来て。結婚式以来かな」
突然現れた白鷹院長の姿に慌てて姿勢を正す。彼は処置室に入るなり、深く頭を下げた。
「今回の件、娘が迷惑をかけて本当に申し訳なかった。父親として娘の異変に気が付かないとは、情けない。お二人にはどうお詫びしたらいいか」
「そんな、私はこの通り何ともなかったので……」
「いいや、そういう問題ではないんだ。緋真さんの職場や自宅にまで押しかけるなんて、正気の沙汰じゃない。一歩間違えたら取り返しのつかないことになっていたというのに」
どうやら一連の流れを、伊織さんから聞いたようだった。結婚式のとき、優しそうな笑みを浮かべていた白鷹院長は、今は苦し気に顔を強張らせている。
智美さんが伊織さんを慕っており、お見合いを望んでいたことは知っていたが、私たちの結婚話が進んでからは話題に出さなくなったという。だから、白鷹院長も気に留めていなかったのだとか。
「もちろん病院は辞めさせるし、お二人にはもう二度と近づかせないと約束するよ。治療が終わったらしかるべき処置もとらせてもらう。謝って済む話ではないが、申し訳なかった」
再び深々と頭を下げられる。白鷹院長に対して怒りなど負の感情があったわけではないが、こういう時どう返せばいいのか言葉が見つからない。
代わりに、先ほど智美さんに言われた言葉を思い出して口を開いた。
「あの……私の火傷を治療してくれたのが、院長先生だというのは本当でしょうか?」
「それは……」
まさか私が知っていると思わなかったのか、白鷹院長は伊織さんと目を合わせる。伊織さんが小さく頷くと、白鷹院長はゆっくりと肯定した。
「娘には詳しいことは話していなかったんだが、どうやら私は娘の情報収集能力を甘く見ていたようだ。緋真先生自身のことも、よく調べていたみたいだから、そのせいで今回のことを招いてしまって申し訳なかった。……あの時、緋真さんの傷を完治させてあげられなかったことも含めて」
「え……」
「できれば、残らないようにしてあげたかった。痕が残ってしまうことは予想していたが、二十年以上も苦しませていたなんて……」
院長先生は何も悪くないのに。悲しそうな顔をされて、胸が締め付けられる。
「……謝らないでください。あの時処置してくださったことも、これまで何も問題なく過ごせたことにも感謝しているんです」
幼いころに負った傷は、成長過程でひきつれを起こすなどのトラブルもあるという。痕は残ってしまったものの、問題なく過ごしてこれたのは白鷹院長のおかげなのだろう。
「私は小さかったこともあって、事故当時の記憶がほとんどないのですが……。治療していただいてありがとうございました。こうし私を救ってくれた方にお会いできるなんて、思ってもいませんでした」
丁寧に頭を下げれば、白鷹院長はどこか困ったように眉を下げた。
「謝りに来たのに、逆にお礼を言われるなんてな。神花先生も緋真さんも人が良すぎる」
「そんな……」
「神花先生が愛妻家な理由が改めてわかった気がするよ」
「えっ」
伊織さんが、愛妻家……?
「正直、二人のことを知っている身としては心配してたんだ。神花先生は責任感が強い人だから、無理してるんじゃないかと。それは結婚に対してもだが、仕事も研究もいつも根詰めてやっていたからね」
「はい……」
「だが杞憂だった。結婚が決まってから神花先生は一層明るくなったし、張り詰めていた気が緩んだ気がしたんだ。だから、きっと緋真さんのことを心から想ってるんだろうと微笑ましかったよ。そもそも彼が医学生時代から研究熱心だったのも、全部緋真さんのためだったと思えば随分と一途な愛に思えてしまって。神花先生の原動力はずっと前から緋真さんだったんだね」
私が、伊織さんの原動力――そんなこと、考えたこともなかった。
「院長、もうその辺で……」
遠慮なく話し出した白鷹院長に、伊織さんが口を挟む。その横顔は珍しく照れくさそうだ。
第三者から伊織さんの印象を聞くのは初めてで、こんな時だというのに嬉しいと思ってしまう。伊織さんの言葉も信じてはいたが、白鷹院長から聞くとより信憑性が高まる気がした。
おかげで空気が和らいだところで、白鷹院長は話を切り上げる。
「……それじゃあ、今日はもう遅いから失礼するよ。緋真さんもゆっくり休んで」
「はい、ありがとうございます」
「これからのことは落ち着いたらまた。伊織先生とお話させてもらうよ」
最後にもう一度頭を下げると、彼は処置室を去って行った。
◇
自宅に戻りベッドに入るころには、深夜を回っていた。
先にベッドで体を休めていると、寝支度を整えた伊織さんが寝室へやってくる。
「時間、遅くなっちゃったね。明日の朝はいつも通り?」
「ああ。緋真こそ仕事は大丈夫?」
「気にしないで。伊織さんより全然ゆっくりだから」
「そう……」
伊織さんはそのままベッドに入るかと思いきや、私の方へ回り、その場に膝をついた。その姿に思わず体を起こす。
「伊織さん……?」
「緋真、本当にごめん。今日のことじゃなくて、これまでのことも含めて。たくさん不安にさせた」
「もう謝らないで。伊織さんは何も悪くないんだから」
伊織さんは以前、智美さんに私に近づかないよう釘を刺したらしく、そのことで彼女の気持ちを逆撫でしてしまったのでは、と責任を感じている様子。それから、もっと早く智美さんに対してしかるべき対応をとるべきだった、と。
智美さんの伊織さんへの好意が原因で起きた事件ではあるものの、それが伊織さんを責める理由にはならないのだ。
「私は大丈夫だから。院長先生も、もう近づかないようにするって仰ってくれたし。さすがに何もないと思うよ?」
「……でも、まだ怖いだろ」
伊織さんが、そっと私の手を握る。そこで初めて気づいた。自分の手が微かに強張っていることに。何時間も前のことなのに、先ほどの光景が頭から離れないのだ。
「俺の中で……もう二度と緋真の体も心も傷つけないって誓っていたのに、また傷つけていたかもしれないなんて……。医師になって治療はできるようになっても、緋真の不安は取り除いてやれない。俺は、緋真のことを不安にさせてばかりだな」
悔しさを吐き出しながら、握られた手が震えている。怖いのは私だけじゃない。伊織さんだってそうなんだ。
そう思うと胸が張り裂けそうな気持ちになり、衝動的に彼を抱きしめていた。
「それは違うよ。……私ね、さっきはすごく怖かった。あの場で誰かが怪我するかもって思ったのはもちろんだけど、一番は伊織さんがまた誰かのせいで苦しむんじゃないかって。それだけは絶対に嫌だったの」
彼にはこれ以上、他の誰かの責任を背負ってほしくないって思ったのだ。自分のことを含めて。
「確かにその不安は伊織さんがいるから感じるものだけど……取り除けるのも伊織さんしかいないから……自分だけを責めないで」
彼を失うかもしれない不安も、精神的に苦しめてしまうかもしれない不安も、すべては伊織さんを愛しているから故の感情で。そのことを伊織さんが気に病む必要なんてない。
「……俺はどうしたら緋真を安心させてあげられる?」
抱きしめる腕に力を込めて、伊織さんが呟く。いつも毅然とした態度で、弱音なんて吐かないのに、その声は今にも消えてしまいそうだ。そんな彼が心から愛おしいと思った。
「……じゃあ、強く抱きしめてほしい」
「……こう?」
「うん……もっと」
言われるがままに、伊織さんが抱擁に応えてくれる。今すぐすべての不安と恐怖を取り除くのは、どうやっても難しいだろう。それでも、力強く広い胸の中に抱きとめられると、不思議と少しずつ薄れていくのを感じた。
「……キスも」
「ん……」
伊織さんは巻きつけた腕を緩めると、そっと頬へと口づける。
そのまま乾いた唇を滑らせ、唇が重なった。互いの唇を浅く食み合う、丁寧なキス。舌も絡めていないのに、やけに甘美に感じられた。
どれくらいそうしていたのか。唇はすっかり潤っていて、彼の唇が離れていった。
胸は温かい気持ちで満たされていて、先ほどの不安も消えてしまうほど。
伊織さんのキスは、どんな薬よりも効き目があるみたいだ。
だけど――
「……やっぱり、不安は消えないよ」
「え?」
「伊織さんが傍にいてくれないと。だから……これからもずっと一緒にいて。それが一番安心する」
自分から言っておいて、何だか恥ずかしさが込み上げてくる。
再び伊織さんを引き寄せると、首筋に顔を埋めた。
「……ああ、約束する。俺は緋真を絶対に手放すつもりはないし、ずっと傍にいる」
しっかりと囁いて、伊織さんの大きな手が頭を撫でると、体中が安心感に包まれていった。
「今夜は、このまま抱きしめて寝てほしい、な」
「いいよ。今日だけじゃなくて、毎晩そうするから」
そう言って、彼が布団の中へと潜り込んでくる。
ぴたりと体を寄せ合うと、互いの隙間がなくなった。もう誰も入る余地もないくらい。
胸元からは、とくんとくんと規則正しい鼓動が。頭上からは優しい息遣いが聞こえてきて、その心地良さに包まれて、ゆっくりと目を閉じた。
コメント
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みぅだよ🤍 26話、すごく刺さったな…… 病院でのシーンから、夜の寝室の伊織さんの「まだ怖いだろ」って台詞に、胸がぎゅっとなった。いつも強い彼が、自分を責めて「俺は不安を取り除いてやれない」って震えてたのが切なくて。 でも緋真さんが「全部伊織さんを愛してるから」って抱きしめ返すところ、本当に尊かった……。 院長先生からの「伊織さんの原動力はずっと前から緋真さん」も、そうだよなってじんわりきた。 安心したいから一緒にいてほしいって、それだけでいいんだよって思えた回だった。 素敵な物語をありがとう🌙