テラーノベル
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短いトンネルを抜けて、停留所1番に停車した登山電車の扉が開く。一瞬、眩い陽射しが飛び込んで、私は目を細めながらゆっくりと立ち上がり、ホームへ向かい歩き始めていた。
「停留所1番です。お忘れものはございませんか」
車内アナウンスを背に、私の目の前に広がる光景それは、幼い頃に住んでいた、下町のちいさな駅の改札口だった。
街ゆく人々のファッションも、商店街から流れる音楽も、夏の強烈な陽射しさえも懐かしく、私は思わず走り出していた。
駅前のコーヒーショップの焙煎の香り。
うるさすぎるパチンコ屋、
毎日閉店セールをしていたブティック。
ドーナツショップも、お好み焼き屋も不動産屋もあの頃のままだ。
コンビニエンスストアを曲がって、ちいさ過ぎる公園の先に白いのれんが揺れている。
「ラーメンのりこ」
の7文字に、私の足は止まる。
まだ自動化されていない店の扉を潜ると、もう一度聞きたかった在りし日のママの声がした。
「いらっしゃい!カウンターしかないよ」
私はこくりと頷きながら、いちばん奥の席に座って店内を見渡した。
常連客の谷内さんは、私を見るなり会釈して、バイトのお姉さんは微笑んでくれた。
壁にかかるポスターも、箸立てや大きな胡椒の缶も昔のままで、私の涙腺は崩壊した。
堪えきれない。
だけど、声だけは出さないようにしていた。
何故なら、駅で見たポスターの、
「喋らないでね」
「触らないでね」
「眠らないでね」
が、頭によぎったからだ。
それでもママは、私に話しかけてくる。
「今日は早かったんだね。いつも夕方くらいだからさ、いつもので良い?塩ラーメンは…大盛りにしとくかね。食べ盛りだもんね」
ママは手際良く麺を湯掻きながら、小皿にのった塩むすびを差し出してくれた。
私は思わずそれを受け取ったけれど、何も起こりはしなかった。
厨房に立ち込める湯気の中、せっせと働くママの姿はあの頃と変わりなく生気に溢れている。
私は不思議と、
「そっか、私はママから産まれたんだ…」
と、実感した。
ママは、
「そうよ、まひろは私の子供なの。すごいでしょう!トンビが鷹を産んだのよ。まひろはね、勉強はからっきしダメなんだけど、作文だけは凄いのよ。コンクールで表彰されたりしたんだから!私の生き甲斐かな…そうだ、谷内さんの生き甲斐は?」
「俺?俺かい…そっだなあ…パチンコ」
谷内さんは笑っていた。
私はぽろぽろと涙を零しながらも、懐かしさに微笑んだりと、忙しい顔をしていただろう。
見かねたバイトのお姉さんが、そっとハンカチを渡してくれたことでわかる。
「はい、お待ちどうさま!熱いから気をつけて」
ママから渡されたラーメンは、私が大好きな煮卵入りの塩ラーメンで、ほうれん草も入っている。
小学生の頃は、毎日のように通って、この奥のカウンター席に座って宿題をしていた。
ラーメンのりこは、昔も今も変わらずに、無条件でありのままの私を受け入れてくれている。
私はレンゲを手に取って、透明なスープをひと口飲んだ。
ママは、
「美味しいに決まってるわよ、私の技量1割、思い出9割ってとこかしら。だけどね、それも味なのよ、美味しかったものって、記憶にずーっと残るんだから」
私は頷きながら、細めのストレート麺を啜って、ママが毎朝漬け込んでいた煮卵を口にした。
心の中では、美味しいよと連呼し続けていた。
「まひろ、まあゆっくりしてさ、落ち着いたら帰りなさい。ちゃんとご飯を食べて、しっかり休むんだよ、ここへはいつだって来れるんだからね。いいね、ちゃんと帰るんだよ」
私は限界だった。
ママ、そんなこと言わないでよ!
帰りたくないよ!
いやだよ。帰りたくない、帰りたくないよ!
そうして口に出してしまった。
「ママ!」
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