コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
やがて行彦は、毎晩のように、悪夢を見るようになった。
行彦は、更衣室の真ん中でうずくまっている。所狭しと集まったクラスメイトは、男子も女子もいて、みんなで行彦を指さし、馬鹿にするように大声で笑っている。
「おいオカマ」
「お前、男に体を売っているらしいな」
「あの洋館に、夜な夜な客を引き入れて、男とやって金を稼いでるって、もっぱらの噂だぜ」
「こいつ、女みたいじゃん」
「アレ、ちゃんとついてんのかよ」
「ちょっと見せてみろよ」
マジかよ。キモい。やめなさいよ――。
汗だくになって目を覚ますと、くやしくて悲しくて、涙が止まらなくなり、朝まで泣き続けた。行彦は、学校に行くことが出来なくなった。
母は、何も聞かなかった。聞かなくても、今まで学校に行くことを嫌がることのなかった行彦が、部屋にこもったまま泣き暮れている様子を見て、おおよそのことは察しがついたのかもしれない。
「行彦が行きたくないなら、行かなくてかまわないのよ。家で出来ることをすればいいわ」
そう言って、行彦を安心させるように優しく微笑んだ。
大事なことを聞くのを忘れてしまった。そう気がついたのは、夜明け前の道を、家へ帰る途中だった。
まあいい。どうせ今夜もまた、行彦に会いに行くのだから。そして、すぐに心は、先ほどまでの甘い時間へと戻って行く。
行彦と交わした、長く官能的なキス。行彦の細い首。パジャマの襟元からわずかにのぞく、白い肌……。
朝食のときに、母が言った。
「伸。最近、少し顔色がよくないんじゃない?」
「そう?」
「体調はどう?」
「元気だよ」
「何か心配事は?」
「全然」
伸は笑って見せる。毎日、いたって快適だ。最近は、なぜか松園たちの嫌がらせも鳴りを潜めているし、何より、毎晩、行彦に会える。
「それならいいけど……」
家で出来ることをすればいい。母はそう言ってくれたが、行彦は、学校に行くどころか、部屋から出ることすら出来なくなってしまった。
部屋を出ようとすると、胸が苦しくなり、クラスメイトたちが、あざ笑う幻聴が聞こえて来るのだ。やがて、ドアノブに触れることすら出来なくなった。
その昔、イギリス人が建てたという洋館には、部屋ごとにバス・トイレが完備され、食事は、いつも母が運んで来てくれるので、部屋から一歩も出なくても、困ることは何もなかったが。
芙紗子は、行彦に、心療内科を受診することを勧めたが、行彦が泣いて嫌がると、母は言った。
「無理に受診することはないわ。それに、行彦は部屋から出られないんだもの。病院には行けないわよね。
大丈夫よ。この子には私がついているから。ねぇ行彦」
そして、いつもの優しい笑顔を浮かべる。行彦が拒んだので、医師に往診してもらうこともなかった。
気が遠くなるような長い時間を、部屋の中で過ごした。それは、とても孤独な時間だった。
自分は、このまま永遠に、ここでこうしていなくてはいけないのか。そう思っていたあの夜、突然、ドアが開いたのだった。
一瞬、まぶしそうに目を閉じた彼は、腕で光を遮るようにしながら、ゆっくりと目を開けた。
「あ……!」
驚きの声をもらしながら、彼の目が大きく見開かれる。さらりとした素直そうな髪を額に垂らした少年は、ブルーのギンガムチェックのシャツを着て、いかにも健康的だ。
自分とは違う世界の人間。そのときは、そう思ったのだが。
こちらを見つめながら、少年は、戸惑ったように言った。
「あの、えぇと……」
行彦は尋ねる。
「君、誰?」
「あっ、俺は、安藤伸です。えぇと、なんかすいません。あの……」
あたふたする様子が、なんだかかわいくて、思わず微笑んだ。少年は、行彦をじっと見つめている。
「安藤、伸くん?」
彼は、生真面目そうに答える。
「あっ、はい」
「僕は、行彦」
そのとき、窓に何かがコツンと当たる音がした。不意に、更衣室での出来事がフラッシュバックして、行彦は、すがるように伸を見る。
伸は、つかつかと窓に歩み寄り、厚地のカーテンを引き開けた。そして、窓の外を、持っていた懐中電灯でしばらく照らした後、スイッチを切って、こちらを向く。
「えぇと、誰もいないと思ったから、急に入って来てすいませんでした。帰ります」
そう言うなり、ぺこりと頭を下げてドアに向かう。
行彦は、あわてて声をかけた。
「待って!」
これでお終いなんて嫌だ。裸足のままベッドから下りて、伸に駆け寄りながら言う。
「まだ行かないで」
「でも……」
伸は、落ち着かない様子で、ドアと行彦を交互に見る。
行彦は、こみ上げそうになる涙をこらえながら言った。
「ずっと一人ぼっちだったんだ。伸くんと、もう少し話がしたいな」
行彦の目を見つめながら、伸が言う。
「でも、もう、行かないと……」
「それなら」
行彦も、伸の目を見つめ返す。
「また来てくれる?」
「あ……うん」
伸が小さくうなずいてくれたので、ほっとする。
「よかった……。明日のこの時間に、またここに来て」
再び、伸はうなずく。
「わかった」
「じゃあ、指切りしよう」
一歩近づきながら小指を差し出すと、戸惑ったような顔をしながらも、伸は、しっかりと小指を絡めてくれた。