テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
初秋とはいえ、まだ日が沈むには早い頃、アンソルーペたちが歩みを進める松の森は分厚い覆いを被せたように真っ暗闇で、既に松明を利用し始めて暫く経っていた。古い街道は未だ雑草除け等、種々のまじないが残っているらしく、色濃い闇を除けば障壁のない道のりだ。進めるだけ進んできたが燃料にも限りはあり、魔法の灯りとて制限がないわけではない。隊列を組んでゆらゆらと揺れる種々の明かりを眺めながら、そのようなことをアンソルーペが考えているとドロラが心を読んだかのように先んじる。
「首席、そろそろ野営の準備をなさいますか?」
「そそ、そうですね」とアンソルーペは闇の奥を見つめながら頷く。
「……何か?」優秀な副官は鉄仮面の奥から首席焚書官を窺う。
「ううん。何も」アンソルーペはまだ軽い足取りを止め、冷たい森の空気を臓腑に取り込むように大きく息を吸い込む。「今夜はこの辺りで野営する! 支度にかかれ!」
僧兵たちが戦闘時とは別の割り振られた役割に沿っててきぱきと立ち働く。深い森の中で人間の仮の領域が築かれるにつれ、不思議と驚異の隣で生きる者たちが木の根の陰や木の葉の裏へと隠れていく。そして結界や魔除けに怯えて逃げていくのだった。
すぐさま簡易的な天幕がいくつも張られ、食事の用意ができる。ゲウタルの村で多少補給したが、彩に欠け、乏しい食事量であることは変わらない。それでも一日の終わりに志を同じくする同胞と食事を共にし、その日の働きを労い合う時間は何物にも代えがたい。
ガレインについて、救済機構について、残り一年と迫る救済の時について、存分に語らい合う焚書官たちの輪から離れたところでアンソルーペは木の根に腰掛け、一人食事をする。上司がいては気が休まらないだろうという気づかいと、打ち解け合った輪の中にどうやって入ればいいのか分からないからだ。
「総長とはご一緒されないんですか?」とドロラが食事を終えて、未だに木の深皿を抱えているアンソルーペの隣に座る。
「はははい。お祖父ちゃんは第一局の部下の方たちと食事を摂るようにしているので」
本来は見習わなければならないのだが、とアンソルーペは心の内で落ち込む。そしてじろりとドロラに視線を送る。
「……首席? 何か?」
「ドロラちゃんはわわ私のこと、ともとも友達だと思っていますか?」
「ええ、首席は大切な友人だと思っていますよ」
「ででもでもきょ距離を感じます。仕事じゃない時も」
「上司ですから、多少は気おくれを感じているんですよ」
「じょ上司ではない他の焚書官にもあまあまり気易い感じではないような」
「だからといって」ドロラの声は少し硬質になった。が、すぐにいつもの声質に戻る。「親しくしていないわけではありませんよ。失礼な態度だったならば改めますが」
「べべ別にそんなことはないけど」アンソルーペは別の話題を探す。「そそそうだ! あああの村長が言ってた、最近森の奥でひひ人影を目撃したって話。ちょちょ丁度こちらの方角だって話だったけど、だだだ誰とも遭遇しなかったね」
ドロラも気になっていたようでしっかりと頷く。
「確かに。村人がこれほど森の奥までやって来ることもないでしょうし、目撃者の勘違いだったか、仮に使い魔だったとしても、もう移動してしまったのかもしれませんね」
「お前、うざがられてるぞ」
森の夜と対話するドロラの静かな寝息と夜影に潜む者たちを威圧する焚火の爆ぜる音以外には何も聞こえなかった天幕の内で重い泥を掻き混ぜたような声が聞こえた。
アンソルーペはうんざりした気分をぶつけるように心の内で答える。「あなたに何が分かるんですか」
「お前の鬱陶しい性格のことはオレが誰よりも知ってるっての。友に対しても変わらずうじうじしているお前に距離だのなんだの言われたかねえわ」
「そもそもあなたのせいで私は戦いの時に性格の変わる変人扱いされているんです。血で興奮してるとか暴力に陶酔してるとか」
「だからどうした? 誰のお陰で大王国に蹂躙された祖国から脱出し、生き延びられたと思っている? お前が望むならあの時回避した運命を招いてやるが」
耳鳴りのように忌々しい声が頭の中で響いてもドロラの寝息と焚火の爆ぜる音は変わらず聞こえ、アンソルーペに安心感をもたらす。
「二言目にはそれですね。恩着せがましい。死ぬつもりはありませんし、嫌なら出て行ってくれて構わないですよ」
「無力なお前が、オレの力無しに祖国独立を叶えられるとでも?」
「いずれにせよ個人の力でどうなるとも思えませんが、お陰様で相当の地位に至りました。機構上層部へある程度の働きかけができるくらいには」
「ほう。大きく出たな」
屋根裏に潜む者の囁きの如き耳障りな声が止み、アンソルーペは何か違和感を覚えた。幸運を退けそうな禍々しい言葉が消え、ドロラの寝息と焚火の爆ぜる音の存在感が大きくなる。それに、それらにまるで話しかけられているかのような、隣に眠っているドロラと共に天幕の外で燃えているはずの焚火を眺めているような、夢だと分かっている夢を見ているような覚束ない現実感があった。
アンソルーペはゆっくりと起き上がり、ドロラの寝顔を盗み見、自身の両手を握って開く。そっと天幕を出ると、焚火のそばで眠りこけている見張りの焚書官を遠目に見る。
今、起きているのは自分だけだ、とアンソルーペは不思議な確信を持つ。
「オレも起きてるぞ」
何か異変を、まさに今も目にしているような気がしたが、分からない。あるいは異変そのものに身を浸しているような感覚だ。じっと耳を澄まし、他の音を探す。焚火の音以外に風の音を見つけ、葉擦れの音も聞こえだす。見上げると揺れる松葉の合間に星明かりがちらちらと覗き見える。ただそれだけだ、と思えなかった。何かを見落としている気がしてしまう。
ふと視界の端で何かが動いたのが見え、そちらに目を向ける。人を拒む森の奥、密に生える木々の間、塗り込められた暗闇の向こうには暗闇以外の何も存在しないように見えるが、アンソルーペは確信に手を引かれてそちらへ歩き出す。
湖底を行くように緩やかな歩調で歩き始め、夜目に慣れるにつれ足を速める。しかし歪な根を足裏に感じ、足を取られないように少し慎重に歩を進める。まるでそうすることが初めから決まっていたことのように感じられた。
何かがいた。いつの間にか、視界の中心に、慈しむような青白い月の光の降り注ぐ開けた空間が見えた。近づいて来たのではなく、突然そこに現れたかのように錯覚した。
しかしアンソルーペは警戒するでもなく、むしろ足早にそこへ向かう。まるで雲に月の光が隠されれば、その場すら消え失せてしまうかのような幽かな存在に思えたのだった。
そしてその場には何者かがいる。ずっといたはずなのに、まるで月の光に溶け込んでいたかのように、気が付いて初めて気が付いていたかのように見出した。
舞い踊っている。ただ舞い、独りで踊っている。
月光の舞台の縁までやってくるとアンソルーペは立ち止まる。それは白磁の人形の如き踊り子だった。月の光を浴びて、照らし出される舞台に溶け込むように仄かに輝いている。
舞踊を使う魔術についてはよく知っているはずだが、アンソルーペには警戒心が湧いてこなかった。あるいは警戒心を抱かせない魔術なのだろうか、という発想に至ってもなおただ踊り舞う様を見つめるしかできなかった。
「いつまで呆けている? これが例の人影って奴じゃないのか?」
不快な声を聴いて、アンソルーペは半歩分だけ現実へと戻ってくる。
「ああああの! おとお友達になりませんか!?」と気が付けば口にしていた。
「何を言ってるんだお前は」という呆れた声に、アンソルーペ自身も同調する。
何を言っているんだろう、私は。
まだ一言も言葉を交わしていないのに、何かに共感したような気がしたのだった。
こうしている間も白磁の踊り子は踊り続けている。手足の末端まで神経を張り巡らせ、かといって中枢まで繊細であり、あらゆる関節の角度に妥協がない。その舞いは美しく、その踊りは豊かだった。
そしてその舞踊こそが雄弁に語り掛けているのだとアンソルーペは気づく。知らない言語で語り掛けられた時のように、何を言っているのかまでは分からない。しかしどのような言語であっても必死に訴えかけられれば感情くらいは伝わるものだ。その舞踊にはその力があった。
「ああ貴女も一人なんですか!? だだだ誰がそばに居てもこど孤独を感じる時があるのでは!?」
返事はない。あるいは舞踊で答えているのかもしれないが、アンソルーペには分からない。
「お前も踊れば?」と頭の中の声に言われる。
「おど踊りなんて踊ったことないです」
「そういえばそうだな。取り柄と言えば憑代として優秀なことくらいか。魔術も戦闘も下手。歌も踊りも出来ねえ。他にすべきこともねえのにやろうともしねえ。ならさっさと封印を剥がしちまえよ」
アンソルーペは煽られてむきになる。まるで子供のようだと自覚していたが、気は楽になった。
月光の舞台の縁で、見様見真似で舞い踊る。月光を浴びる踊り子の美しさは露ほども再現できないが、それは新しい言葉を覚える時と同じだと割り切る。後ろ足で立った犬のように不格好で大雑把な舞踊になり切れていない動きだが、不思議と一体感があった。アンソルーペの動きに踊り子が答えているように感じ、ようやくその存在に気づいてくれたかのように感じた。
アンソルーペはそのために生きてきたかのように夢中で踊り続けた。月光の差し込む角度が大きく変化してもなお舞い続けた。僧兵として十分な体力はあるはずだが、それでも一日の行軍による疲れと夕暮れ時から息を潜めていた眠気が姿を現し、とうとう体力が尽きて倒れ込む。
息も絶え絶えなアンソルーペを尻目に踊り子はなおも踊り続けている。アンソルーペには何かが通じたようには思えなかった。今では分かる。この使い魔にとって、言葉による表現はあまりにも乏しいのだろう、と。まるで覚えたばかりの覚束ない言葉で喋るように、十全に思いの丈を表現できないのだ。何か一つの能力に優れている使い魔たちの中で、舞踊に優れる彼女は同じくらいの熱量と豊かな表現で語り合える友に出会えなかったのだ。
何か、方法はないだろうか、とアンソルーペは頭を捻る。
一瞬だけ寝息を立てたが、かっと目を開き、悲鳴をあげている体を押して立ち上がる。
そして招かれてはいない月光の舞台へと入り、舞い踊る白磁人形の手を取る。その滑らかな顔に困惑の表情が浮かんだが、すぐに意を汲んだかのように頷く。
二人は踊る。手を取り、指を絡め、息を合わせ、足を揃える。まるで一つの生き物のように一体化する。その腕に身を任せ、遠心力に身を預け、触れれば支え合い、触れていない時も確かな引力が二人を繋いでいた。青白い月光が降り注ぐ森の中、二人は語り合い、通じ合う。楽の音の代わりの木々の騒めきの中にあって、悠久の孤独に共感し、慰め合う。
初めて聞いた使い魔の声は、固く結んでいた口の綻びから零れ出た。
はっと目が覚めるとアンソルーペは天幕の中にいた。物音から察するに既に第四局は起き出して、出発の準備をしているようだった。ドロラもいない。
アンソルーペは溜息をついて起き上がり、手の甲の違和感に気づく。そこには身をくねらせる海豚の描かれた雲の形の札が貼ってあった。なぜ新しい封印がここにあるのか、まるで覚えがない。