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#シークレットベビー
夏目萌*優しい彼~コミカライズ
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宇津Q
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鷹槻れん

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六月の声を聞く頃には、私はもう完全に『こころ』の虜になっていた。
教室の喧騒の中にあっても、机の下でこっそりページをめくれば、そこには静謐で暗い明治の空気が広がっている。そして何より、この文字の羅列の向こう側には、同じ物語を知っているあの人がいる。その事実だけで、私は息苦しい教室をなんとかやり過ごすことができた。
しかし、その均衡はひどく脆く、あっけない形で崩れ去った。
金曜日の昼休み。いつものように、私はお弁当箱を早々に片付け、自分の席で文庫本を開いていた。数メートル先では、クラスの中心にいる女子グループが机を寄せ合い、スマートフォンを覗き込みながら甲高い声で笑っている。
普段なら右から左へ聞き流せるその会話に、ふと耳を塞ぎたくなるような単語が混じった。
「ねえ、西棟のトイレ掃除してるおじさん、見たことある?」
「あー、あのいつも青い作業着の? ちょっと暗い感じの人っしょ」
「そうそう! なんかさ、いっつも無表情でモップかけてて、ちょっと怖くない? この前、目合っちゃってマジで鳥肌立ったんだけど。絶対冴えない人生送ってそう」
ドッと、無遠慮な笑い声が弾けた。
彼女たちに悪気はないのだろう。ただ、その場の空気を盛り上げるための、消費されるだけの安い話題。対象は誰でもよかったのだ。
けれど、私の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。手の中の文庫本を握る指先が、白くなるほど震えている。
田中さんは、怖い人なんかじゃない。冴えない人生なんかじゃない。誰よりも誠実に、自分の仕事に向き合っている人だ。大人ぶって、何も知らないくせに。
「……違う」
気づいた時、私は席を立ち上がっていた。
女子グループの何人かが、不思議そうにこちらを振り返る。
「え、葵、なに?」
「あの人は……っ、ただ、真面目に仕事をしてるだけだよ。誰も見てないところでも、すごく丁寧に床を磨いてくれてる。笑いものにするのは、おかしいよ」
震える声だったが、教室中が水を打ったように静まり返った。
中心にいた女子が、信じられないものを見るような目で私を見つめ、やがて、引きつったような愛想笑いを浮かべた。
「ぇ、ごめん……でもさ、別にそこまで怒ることなくない? 葵って、あの清掃員と知り合いなわけ?」
「……ッ」
知り合い、という言葉に私は息を詰まらせた。違う。知り合いですらない。私はただ、落ちた星を拾ってもらい、本の感想を少しだけ言い合っただけの、なんてことない女子高生だ。
言い返せない私を残して、彼女たちは「なんか空気悪くなっちゃったね」「次、移動教室だっけ」と、そそくさとその場から離れていった。
その日の午後、私は完全にクラスの中で孤立した。
あからさまな無視ではない。ただ、触れてはいけない痛い子という透明なバリアが私の周囲に張られただけだ。私が最も恐れていた、そして最も楽だったはずの透明人間に、本当の意味でなってしまったのだ。
放課後のチャイムが鳴ると同時、私は逃げるように教室を飛び出した。
向かう先は一つしかなかった。息を切らして西棟の三階へ駆け込むと、まだ夕暮れには早い、白茶けた光の射す廊下に、青い背中があった。
シャッ、シャッ。
いつもと変わらない、規則正しいリズム。その音を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がふっつりと切れ、私の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。声を出さないように必死に唇を噛んだが、嗚咽が漏れる。
足音と気配で振り返った田中さんは、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる私を見て、ピタリとモップを止めた。
「……どうかしましたか」
彼は慌てることも、大げさに驚くこともなく、ただ静かに問いかけた。私は首を横に振り、廊下の壁に背中を預けてずるずるとしゃがみ込んでしまった。
惨めだった。彼を庇おうとして自爆したなんて、絶対に言えない。ただの子供の癇癪だと思われるのが怖かった。
田中さんはそれ以上何も聞かず、清掃カートから少し離れた窓際に歩み寄ると、ポケットから何かを取り出した。
カチャン、という硬貨の音がして、自販機から飲み物が落ちる鈍い音が響く。
「はい。冷たいですけど」
私の目の前に差し出されたのは、冷えた缶のレモンティーだった。
顔を上げると、田中さんが少しだけしゃがみ込み、私の目線に合わせてくれていた。
「……ありがとうございます」
「いいえ。……学校、疲れますか」
その短く、ひどく穏やかな問いかけに、私はたまらず頷いてしまった。
「私、うまくやれなくて。周りに合わせるのも、自分の気持ちを我慢するのも、もう、疲れちゃって……」
「そうですね。十六歳の社会は、大人の社会よりずっと狭くて、逃げ場が少ないですから。息が詰まるのも無理はありません」
田中さんは立ち上がり、窓の外のグラウンドを見下ろした。
「学校、無理して笑わなくてもいいんじゃないですか。ここみたいに、誰もいなくて、あなたが休める場所があるなら、それでいいと思いますよ」
――休む場所があるなら、それで。
その言葉は、冷たいレモンティーと一緒に、私の乾ききった心の奥底まで染み渡っていった。
ああ、私はこの人が好きなんだ。
ただの憧れでも、大人の余裕への興味でもない。この人の静かな眼差しと、決して私を否定しないその体温のような優しさに、どうしようもなく惹かれているのだ。それは、十六歳の私にとって、初めて自覚した明確な恋だった。
「……田中さん」
「はい」
「私、こころ、最後まで読みました。先生は、本当は誰よりも人間を愛したかったんだと思います」
涙声のまま告げた私の感想に、田中さんは少し驚いたように目を見開き、やがて、今までで一番柔らかい、本当の笑顔を見せた。
「……そうですか。あなたなら、そう読み解くと思っていました」
彼が私を認めてくれた。その喜びに胸が震えた、次の瞬間だった。
「おお、田中さん。お疲れ様」
階段の方から、体育教師の大きな声が響いた。田中さんはスッといつもの平坦な表情に戻り、「お疲れ様です」と軽く頭を下げる。
私は慌てて涙を拭い、本で顔を隠すように俯いた。
「いやあ、いつも綺麗にしてくれて助かるよ。来月いっぱいで別のビルに異動になっちまうんだって? 寂しくなるなあ。うちの学校の担当、長かったろ?」
「ええ。三年ほどお世話になりました。会社の方針ですので」
「そうかそうか。残りの期間も、よろしく頼むよ」
体育教師の足音が遠ざかっていく。
私は、息をするのも忘れて、凍りついたように動けなくなっていた。
「……異動、するんですか」
絞り出した私の声に、田中さんは静かに頷いた。
「はい。七月からは、駅前の商業施設の担当になります。ここは、来週の金曜日が最後です」
そんな。ようやく、本当の気持ちに気づけたばかりなのに。ようやく、彼と言葉を交わせるようになったばかりなのに。
夕暮れが近づくオレンジ色の廊下で、私と彼の間に横たわる、大人と子供。清掃員と生徒。という絶対的な距離が、残酷なほどはっきりと、私の目の前に突きつけられていた。
コメント
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うわあ、この第3話、すごく胸に来ました……。葵がクラスメイトに「違う」って立ち上がるシーン、震えました。あの年齢で周りに流されずに自分の言葉で抗う勇気、それでいて結果的に孤立してしまうもどかしさ。そして田中さんが缶のレモンティーを差し出すところ、あの「学校、疲れますか」って短い問いかけだけで、彼の優しさが全部伝わってくるようでした。最後の異動の話で、二人の間に横たわる「大人と子供」の距離が残酷に可視化される構成、美しいけど切なすぎます……。続き、めちゃくちゃ気になります!