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突然ガチャッという音と共に玄関扉が開き、ルスが慌てて顔を上げた。一瞬、ルスは祖母が帰って来たのかと思ったのだが、『ただいまー』と言う声と共に現れたのはルスの母親である“澤口あかり”の姿だった。腕にはタオルに包まれた物を抱えており、すぐ後ろには派手な格好をした男も立っている。
母親が帰って来た。
だが、その事を喜んでいる様子が今のルスには無い。今は居ないからいいが、祖母が居る時にあかりが来ると、その後数日間は祖母が泣き崩れて家の中が海底に沈んだみたいにどんよりとするからだろう。
『あれ?母さんは?』
キョロキョロと室内を見渡しながら、無遠慮に室内へ上がり込む。腕に抱えていたタオルの塊は近くにあったダイニングテーブルの上にドンっと置いた。
『ねぇちょっと!母さんは居ないのぉ?』
ルスの存在に気が付いたあかりが問い掛けると、彼女は首を横に振った。
『…… ふーん。まいっかぁ、アンタが居るし、そのうち帰って来るでしょ』
楽観的な言葉を口にして、あかりはいつもの様にすぐさま帰ろうと玄関の方へ足を向けた。
『なぁ。ソイツ、何歳くらいなんだ?』と言って、同行していた男がルスを指差す。自分では正確な年齢を把握していないルスが黙ったままでいると、あかりは『産んでから随分経ったし、多分十五、六くらいじゃないの?』とあまりにもテキトウ過ぎる言葉を返した。
『いやいや、流石にねぇって!』
冗談であると受け止めた男は豪快に笑ったが、何が楽しいのかわからないルスの表情は硬いままだ。そんなルスの顔をじっと見て、あかりはニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。
『でも、そうねぇ、そろそろこの子にも働いてもらおうかしら』
『は?このチビが?』
『産んでやったんだもん、恩義は返すものでしょ。それにさぁ、幼女趣味の奴っていくらでもお金出すじゃん?こう見えても十八歳です、合法ですよって言えばいくらでも喰いついて来るって』
『ばっか!十八は無理あり過ぎだろ!』
腹を抱えて、再び男が笑った。
『親が十八って言えば、十八なのぉ』
あかりが子供みたいに不貞腐れた顔をしたが全く可愛くない。むしろ気持ち悪いとさえ思う。
『初物なら高く売れそうじゃない?んでぇその後は日に二、三人は客取らせてさ。そうねぇ、口止め料も含めて請求したら、数週間で新作の鞄も余裕で買えそ!ヤダァ、めっちゃいい考えじゃん!』
頬を赤く染め、あかねが良案だわと喜びながらぱんっと両手を叩く。
『おいおい、十八歳って設定なんだろ?なのに口止め料請求って、どっちやねんって感じだな!』
『あー!そっかぁ』
くそとこぼして舌打ちをしている。人は子供を産んだだけでは母親にはなれないのだなと、改めて痛感した。
『どっちにしても、此処でウリをやるのは母さんの目があるから無理くさいんだよねぇ。どっか都合のいい場所探さないと』
『それなら俺にツテがあるから、訊いてやろうか?』
『まじ?ありがとぉ!』
『その分、分け前は期待してっからな』
『ちゃっかりしてんなぁ、まったく』
顔を向き合わせて二人が笑う。完全に取り残されたルスは何の話をしているのか微塵も理解出来ず、体を強張らせていた。
『不安なのー?大丈夫!母さんもアンタくらいの時にはやってた事だから、全然怖くないよー。あはははは!』
大嘘だ。この女の過去を知らずとも断言出来る。
ルスの祖母はそんな事を思い付く様な人間では無い。この女が自主的にであれば、ありえそうな話ではあるが。
『売るにしても、その髪、酷いわねぇ。次にアタシが来る時までには綺麗にしとくのよ。アタシの子なんだもん、アンタでもそのくらいやれるでしょ?』
無茶苦茶な要求をしながら目線だけをルスの方へやる。あかりにはもう、小さなルスが金の成る木か金の卵を生む鳥くらいにしか見えていないみたいだ。
『それじゃ、準備が出来たらまた来るわ』と言って、あかりが軽く手を振った。 挨拶を返さねばと判断したルスが控えめな仕草で手を振り返す。相変わらず黒いマーカーみたいなもので塗りつぶされた顔は全く不明なままだが、全身からは緊張が伝わってきた。
『あ、そうだ。コレ、母さんが戻るまでの間、アンタが面倒見るのよ。弟だからさ』
ダイニングテーブルの上に置かれたタオルの塊をあかりが指差す。どうやらタオルの中には赤ん坊が——リアンが、居るみたいだ。
『…… え。でも、あの…… 』
やっとルスが口を開いたが、その声はあかりには届いていない。
『アンタと同じくらいの時期にはもう、アタシはアンタの面倒見てたのよ。ならアンタもやれるでしょ?』
現実味も整合性の欠片も無い話と共にめちゃくちゃな要求をされ、明らかにルスが動揺した。辛うじて言葉の意味を理解出来たのだろう。
『おいおい、んなワケ!』
男がまた腹を抱えて笑う。所詮は他人事だからと楽しくってしょうがないみたいだ。
『どうせバレないって』と、あかりが男に小声で言う。小馬鹿にした笑いを浮かべるあかりの顔を今すぐにでもギタギタに切り裂いてやりたい。
『——あ、そうだ。忘れてた』
そう言って、男に持たせていた鞄の中からあかりが一冊の絵本を取り出した。
『なんかさぁ、知らない間に鞄に入ってたのよね。いらないからアンタにあげるわ』
あかりがルスの方へテキトウに本を投げる。自分の足元に落ちてきた本を拾い上げると、ルスは無言のままペコリと頭を下げた。
生まれて初めて母親から貰った物を大事そうに抱き締める。嬉しくて、といった感じではなく、ただ何かに縋っていないと身も心も持たないといった雰囲気だ。
『んじゃ、またねぇ』
ピンヒールの靴を履き、振り返る事なくあかりが帰って行く。薄暗い部屋には幼いルスと、まだ人間だった頃のリアンの二人だけとなった。