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ボロボロのアパートの一室。二人きりになった部屋の中でリアンの寝息だけが微かに聞こえる。まだ相当小さいから、きっとルスの時と同じく、生まれて間もない状態で此処へ連れて来られたのだろう。
ルスはひとまず絵本を床に置くと、背伸びをしてダイニングテーブルの上に置かれたタオルの塊の状態を確認した。ぐっすりと眠っているリアンの姿が見えたが、こちらもやっぱり顔が真っ黒に塗りつぶされていて顔立ちも表情も全くわからない。覚えていたくなかったのか、そもそも人の顔の判別が出来ない障害があったのか。
もしくは、母親の面影があるであろう自分達の顔を忘れ去ってしまいたい気持ちの表れの様な気もする。
手を伸ばし、おっかなびっくりとした仕草で自分の方へ引っ張り、ルスが小さなリアンを細腕に抱えた。赤ん坊なんか触るのはこれが初めてだ。ベビーカーで寝ている赤子や親に抱えられている子なら窓越しに見た事はあっても、この部屋から一度も出た事のないルスでは赤ん坊の抱え方なんかわかるはずがなく。生後間もない赤ん坊は首の後ろに腕や手を入れて支えてやらねばならない事も知らず、ただテキトウに抱えているせいでリアンの頭が仰け反っている。
『…… やわい』
ボソッと呟き、ルスはリアンを抱えたまま絵本を置いた場所に戻って行った。
硬い床にリアンを寝かせてルスもすぐ隣にぺたんと座る。布団に寝かせた方がいいという発想すらも今の彼女の中には無いみたいだが、小さい弟の側には居てやった方がいいとは考えたのだろう。
あかりから受け取った絵本を手に取り、ルスが表紙をじっと見つめる。子供の目を引きそうな絵がクレヨンで描かれているがタイトルは無い。日々生きるのだけで精一杯で、この部屋にはボタンを押せば音の鳴る板状の機械一つしかルスくらいの年齢の子供が遊べそうな物はないからか、ただ表紙を見つめたまま開こうともしない。絵本は開き、中身こそを楽しむものである事もわからないのだろうか?
しばらく経ち、やっとルスが絵本を開いた。
『——むかしむかし。とある…… の、とある…… では、ニ、ンゲンとマモ、マモ、ノ?…… がいつもケンカをしていまし…… た?』
ボソ、ボソッと、今にも消えてしまいそうな声でルスが絵本を読み始めた。
真っ黒なクレヨンで描かれた魔物、綺麗な色彩を使って描かれた自然の風景や人々の営みが丁寧に表現されている。意味はわからずとも見ているだけで楽しめそうな雰囲気の絵本だ。
『…… りたいなら、この、…… の、…… に、キミの、…… をのせてみるといいよ。…… を、かえたいキミも、…… を、の、のせてみるとい、いよ』
漢字と呼ばれる文字の部分がルスには読めないのか、飛ばし飛ばし先へ進んでいく。頭を傾げつつもゆっくりと。
最後まで読み終わったルスが顔を上げた。話の筋が全く理解出来ないと思っていそうな雰囲気だ。
『たすけ…… たすけ、たす、け?』
同じ言葉を繰り返し、彼女は周囲をゆっくりと見渡した。
カーテンは四六時中閉まっているし、照明を点ける為のコードは高い場所にあって引っ張れないから、常に室内は暗い。同じ物ばかりが詰まった大量の段ボール。一応掃除はしているが、年齢よりもずっと小さい子供と病気持ちの祖母の二人では行き届かず、どうしたって小汚い印象のある部屋。長いと邪魔だと無造作に掴んで切っているせいでめちゃくちゃな髪とサイズの合わぬブカブカな服を着ている自分の手を見て、ルスはゆっくりと息を吐き出した。
…… 重たい、溜め息だった。
泣いてはいないみたいだが、全身に切なさが滲み出ている。
会うたびにきらびやかな母親の格好と、常に見窄らしい自分。口を開けば嘘しか言わない母親からの無理難題。養育費という大金欲しさに産んだだけなのに、ルスへの恩義せがましい態度と返礼を求める発言。金銭的援助はまるでせず、面倒だと育児の全てを高齢の母に押し付け、この先はルスに身売りをさせて更に金を稼ごうとする強欲さ。その上、今度は弟の面倒を見ろと、九歳のルスしか居ない部屋に赤子を置いていく非常識な行動には反吐が出る。今にも吐きそうなくらいに不愉快だ。
『——きえ、たい。ココから、きえて、しまいたい…… 』
俯き、ポツリとそうこぼしながら、ルスが弟の小さな手をぎゅっと握った。体温が高く、柔らかくてすべすべとした手を、加減もわからずに強く握る。
これから何をどうしていいのかわからず、先への不安しか抱けないせいで酷く動揺し、困惑しているのにそれすらも無知なルスでは理解出来ず、頭の中も心も全部が全部ぐちゃぐちゃになっている。泣ければまだ少しは発散出来るのに、泣く事も出来ずにただ俯く。枝みたいに細い体では到底抱えきれない物を背負い込んで物凄く苦しそうだ。
リアンの手を握ったまま、ルスがそっと絵本に手を伸ばした。『キミを、わたし達がたすけてあげる』と書かれた言葉に縋るみたいに、指先でそっとなぞる。助けて、助けて、助けて。今はもう言葉にはしていないが、震える指と、強く弟の手を握り掴んでいる拳から悲痛な叫びが僕にまで伝わってくる。
こんなの全然、楽しくない。
嫌だ、もう知りたくない——
数多の生き物達に憑依して、その相手を不幸のどん底に突き落として笑っていた自分の行いを悔いたくなるくらいに、胸が苦しい。罪の欠片も犯していない善良な子供が絶望する姿を前にする事がこんなにも精神を抉るものだとは思ってもいなかった。
両手で顔を覆い、早く目覚めろと必死に願う。もう、ルスを手酷く裏切って、今までの憑依対象者達の様に奈落へ突き落としてやろうだなんて思えない。契約は完了したが、まだ彼女は何も得ていないが、それでもすぐに肉体を捨ててルスから離れよう。
あぁ、悔しいが完全に僕の負けだ。
そもそも自分と対照的な相手で遊ぼうとなんか、しなければ良かった。
こんなにも心が頽れていくのはきっと、他者を頼らねば肉体という器を持てない僕という存在が彼女の善性に侵食されていっているせいだろうとわかってはいても、もう自分ではどうしようも出来ない。声の無い悲痛な感情の記憶が遠慮無く、僕の魂へ容赦も無しに剣を突き立ててくる。
『——やっと会えた!ずっとずっと、君を探していたんだ!』
突如部屋の中が光り輝き、子供っぽい高めの声が聞こえた。
『願ってくれて、世界を繋げてくれてありがとう!』
その声を聞いた途端、ふと心が軽くなった。ルスが抱えていた負の感情が、驚きのせいで軽減されたおかげだろう。だがすぐに、激しい不快感が僕を襲う。コレは完全に僕自身の感情だった。
(アレは、何者だ?)
ソワレでは見た事の無い男の姿を前にして僕は、アレは所詮ルスの記憶の中の産物であると分かってはいても、苛立ちを抑えきれなかった。