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宗輔の部屋のキッチンは、思っていた以上に食器や調味料が揃っていた。
男の一人暮らしにしてはなかなかのものだと感心していると、私が来た時のために買い足したのだという。一緒に住むようになればもっと色々と必要になるだろうが、と彼は笑いながら付け加えた。
その言葉は、彼との「結婚」を私に意識させた。あれほど嫌だと思っていたのが嘘のように、私は彼を愛してしまっている。だからこの先もずっと彼と一緒にいたい。そして叶うのであれば、「結婚」という確かな約束で結ばれたいと思う。
しかし彼の言葉は、私との将来を思い描いて発したものではないだろう。だから今はまだ、その願いは秘めておこうと思う。私たちがつき合い出してからは、まだひと月ほどしかたっていないのだ。重い女と思われて、彼の心が離れてしまうのが恐い。
その後も何度か、何かの拍子にふと「結婚したらこうだろうか」などと考えそうになった。しかし、彼の部屋で初めて一緒に過ごすこの時間が、最後まで楽しいものであり続けるように、その都度すぐにその想像を頭の片隅に追いやった。
食事は二人で用意した。クリーム系のパスタや鶏肉を使ったサラダ、トマトスープの他に、つまみになりそうな何品かをテーブルに並べた。お酒は宗輔が白ワインを用意してくれていた。私も彼も一杯だけと、控えめに口をつける。
映画のこと、料理のこと、仕事のことなどを話題にして、弾んでいた会話がふと途切れた時、隣り合って座る彼と目が合った。彼の面に、わずかな緊張と照れ臭さのような表情が走ったように見えた。今夜この先に起こるかもしれないことを意識しているのは、きっと私だけではない。私は落ち着かない気分で、グラスに残ったワインを飲み干した。
食事を終えて二人で食器を片づけた後、宗輔はソファに向かった。
まだキッチンにいた私はその背に声をかける。
「宗輔さん、もし良かったら、ハーブティを飲んでみる?」
「持ってきたのか?」
「えぇ。食後にどうかと思って」
「それなら飲んでみようかな」
「今淹れるわね」
二人分のマグカップを持って彼の傍まで行く。ローテーブルの上に置いたカップから、湯気と共に香りが流れた。
「これは花の香りか何か?」
「そう。カモミールっていうお花のお茶なの。リラックス効果があるらしいわ」
「リラックス効果ねぇ……」
彼は意味ありげに笑い、自分から離れた場所に腰を下ろした私に腕を伸ばす。
「ここに来て」
ためらいながら立ち上がる。ぎくしゃくした動きで宗輔の近くまで行き、隣に腰を下ろそうとした。途端に腕を引かれて、彼の脚の間に横向きに座る格好になってしまう。
彼は私の体に腕を回し、耳元で囁く。
「定位置はここだよ」
彼の熱い息に耳を撫でられて、体が強張る。
「緊張してるのか?だから、リラックスするお茶なんか淹れたわけ?」
彼との密着状態にどきどきしながら、あえてつんとした物言いで答える。
「もちろん緊張しているわよ。宗輔さんは違うの?もしかして、こういうことに慣れているのかしら」
「まさか。俺だって緊張してるさ。ずっと好きだった人が自分の部屋にいて、今こうして腕の中にいるんだから。――ところで」
彼は言葉を切り、軽く眉根を寄せて私の顔を覗き込んだ。
「時々急にはっとしたように真顔になったり、何か考え込むような顔をしたり、今日の佳奈はいつもと違って見えたんだけど、心配事か?」
宗輔が気づいていたとは思わなかった。しかし、自分たちの結婚生活を想像しかけては打ち消そうとしていたなどと、正直には言いにくい。
「なんでもないわ。ただ緊張しているだけよ」
「本当か?それだけとは思えなかったんだけどな。なぁ、佳奈。少なくとも俺の前では、言いたいことを飲み込まなくてもいいんだぞ。前にも言っただろう?」
「でも、本当になんでもないから」
彼の追求から逃げるように、私は微笑みながら目を逸らす。
「なんでもかんでも全て話してほしい訳じゃないけど、気になったんだよ。佳奈は自分の中だけで結論を出したがる所があるみたいだしな。ということで、君に素直になってもらうためには、こうするのが一番かな」
言い終えた彼は私の唇をぐいっと塞ぐ。
抵抗する隙もなく、そのまま彼の腕の中で強引に深く口づけられて、私の全身からはあっという間に力が抜けてしまった。
「さて、言う気になったか?」
ようやく解放されて、私はぐったりとしながら彼に恨みがましい目を向ける。
「意地悪ね……」
「今頃気がついたのか?」
彼はにやりと笑う。
私は黙っていることを諦めて、その訳を話すことにした。ただし、いくらかでも軽く聞こえるようにと口調を明るくする。
「あなたの言葉を聞いて、これからのことをふと考えてしまったの。私はあなたとずっと一緒にいたいと思っているけれど、宗輔さんはどうなのかな、って。あぁ、でもこれは私の気持ちであって、宗輔さんにも同じように思ってほしいっていう訳じゃないのよ。だから、重くは捉えないでほしいなって……」
言葉尻が濁る。話している途中から、宗輔の緊張が伝わってくるような気がしたのだ。恐れていた通り、重い女だと思ったのだろうかと不安を通り越して、恐くなった。
宗輔が低い声で私に訊ねた。
「それは、俺との結婚を意識しているっていう意味か?」
心臓がきゅっとすくみ上がる。
「あ、あの、ほんとにね、ちょっと想像してみただけなの。だから……」
「佳奈は、俺が君と遊びで付き合っていると思っていたのか?」
「まさか!そんな風に思っていないわ。ただ……」
私は生唾を飲み込み、声を励ました。
「付き合い始めてまだそんなにたっていないのに、もうこんなことを考えてるなんて、気が早すぎるでしょ」
「それでどこか鬱々した様子だったのか?」
私はこくんと頷いた。
「あなたに重い女だって思われたくなかったから」
「そんなのは可愛いものさ。重いのは俺の方だろ」
宗輔はふっと笑う。
「まさか佳奈がそんな風に思っていてくれたとは思わなかった。いい機会だ。この際はっきり言っておく。俺は君以外の人と付き合うつもりも、結婚するつもりもない。だから今、改めてもう一度言う。結婚を前提にして俺とつき合ってほしい」
彼の目は真剣だった。
その目を確かめるように見返して、私は彼に問いかける。
「本当に私でいいの?」
「あぁ、佳奈がいい。君しかいないんだ。今の言葉だけで信じられないのなら、佳奈が信じられると思うまで言い続けるよ。俺が好きなのは君だけだ。ずっと手に入れたかったのは佳奈だ。その目も、唇も、声も、表情も、仕草も、その性格も、すべてが愛おしくてたまらない」
「もう十分です……」
彼の唇が紡ぎ出す甘い言葉に耐え切れず、私は彼の口を手で塞いだ。
その手をそっと外して彼は私の顔をのぞき込む。
「佳奈こそどうなんだ。俺のこと、本当に好きなのか?俺でいいのか?」
「宗輔さんがいいの。あなたのように上手に言葉にできないけれど、私もあなた以外の人なんて考えられない。ずっとあなたの傍にいたい」
「それなら、君の返事を改めて聞かせてくれないか」
「私の返事はもちろん決まってる」
私は彼の首に腕を回した。
「はい」
彼の腕が私の体に回る。力強く抱き締められて目頭と胸の奥が熱くなった。