姉・フィナンシェと義兄・クレムの結婚式が行われるこの日は、朝からとても良い天気に恵まれた。
今日の段取りはこうだ。まず夫婦となる二人だけで王宮にいる国王陛下のもとへ行き、結婚の報告と挨拶、それに手続きを済ませて皆の待つ教会へと移動する。そこで式を挙げ、最後は披露宴会場となるオードゥヴィ公爵家の屋敷へと場所を移して行くのだ。
式場となる教会には、王都で一番大きな所が選ばれた。荘厳で歴史を感じさせる佇まい――。ここは貴族たちにとって…特に令嬢たちにとっては、憧れの場所らしい。まさに、これ以上ないという選定だ。
そんな教会の中、ショコラは母・マドレーヌと共にすでに着席して待っている状態だった。新婦の家族という事で最前列にいる彼女は、振り返って列席者たちの方を見てみた。
「……この沢山の方々、みんな公爵様か侯爵様なのですね。」
「あと、そのご伴侶様ね。それ以上はいくらここでも入り切らないもの。伯爵様やらご令息ご令嬢方は、その後の披露宴にご招待しているはずよ。」
ショコラは隣に座っていたマドレーヌとひそひそと小声で会話をしている。その途中、母は気怠く溜息を吐いた。
「…あぁ、披露宴は人が多そうね……いつになっても慣れないわぁ。ショコラは大丈夫?貴女こそ慣れないわよねえ。人酔いしないかしら…心配だわ。」
「大丈夫ですわ、お母様。今日の私は、そんな事になっている暇はありませんもの!」
気合いを入れてそう言ったショコラは、またちらりと列席者の方を確認した。
天敵・グゼレス侯爵は……とりあえず、大人しく座っているようだ。目立つ容姿なのでどこにいてもすぐに見付かる。こんな時は役に立って有難いものだ。
一安心すると、彼女は前を向き直した。
……それからしばらく経って、ようやく新郎新婦が式場へと到着した。
後ろの扉が開くと、まずクレムが一人で中へ入って来た。そして祭壇の前まで進むと、フィナンシェの入場を待った。
いよいよその時がやって来る。
一度閉められた扉が、再び開かれた。そこに父・ガナシュに伴われたフィナンシェが姿を見せた。
列席者たちは息を呑む。ただでさえ絶世の美女が、本気の装いをしているのだ。それは当然この世のものとは思えない、簡単に言葉で表現する事など出来ないような美しさに決まっている。普段見慣れているショコラやマドレーヌでさえも、思わず見惚れてしまったほどだ……
そうやって始まった式は、滞りなく進んで行った。今のところ、グゼレス侯爵が何か行動を起こそうとする気配は無いようだ。もしかして、フィナンシェのあまりの美しさに我を忘れてしまっているのだろうか?それならばいいのだが……。
その後も彼は、他の列席者たちと同じようにして、大人しく前方の儀式をただじっと見詰めていただけだった。
――そして“結婚式”は、無事に終了した。
ショコラは一先ずほっと息を吐いた。だがまだまだ安心は出来ない。この後は、列席者が自由に動ける披露宴の時が待っているのだ。
今回フィナンシェたちの披露宴は、参加人数がかなり多い事が予想されていた。そのため場所は公爵家の広い庭を使い、青空の下立食形式で行われる事になっている。雨が降れば台無しになりかねないが、
「私の晴れの日に晴れないだなんて、あるわけが無いですわ!」
という本人の一言で決まったのだ。そしてその通りになったのだから、さすがのものである。
そんな披露宴会場には、ショコラの予想を上回る数の人々が集まっていた。
有爵者とその伴侶、フィナンシェの姿を一目見たいという令息たちに加え、いつもはその存在を疎ましく思いフィナンシェの参加する集まりには顔を出さないような令嬢たちまでもが、その「年貢の納め時」を見届けてやろうと集まって来ていた。
特に彼女らは、自分がフィナンシェの存在に取って代わろうと言うのか、その気合いの入れようが凄かった。まるで主役かと見間違いそうになる豪華なドレスに、宝石類……。遠慮や作法などどこかに打ち捨てたのか、令嬢という令嬢が皆これでもかと必要以上に己を飾り立てている。
そして、そういう彼女たちと真逆の事をしているショコラは、自動的に霞のような存在になっていた。これは、本人にとっては実に幸いな事だった。元々それを目指していたところに、思い掛けず埋もれてしまったこの状況。彼女は非常に有難いとすら感じていたのである。
――しかし。そんな令嬢たちの努力も虚しく、披露宴会場に姿を現したフィナンシェは、いつものごとく全てを掻っ攫って行った。
結婚したからといって、その美しさには何ら変わりはしない。そんな当たり前の事に、令嬢たちは少し気付くのが遅かった。悔しくも、やはり目を奪われてしまう――…。彼女たちは結局、唇を噛むしかないのだった。
ところでこの会場だが、広い芝生の上に席の無い丸いテーブルがいくつも用意され、端の方には大きなテーブルが置かれていた。そこへ並べられているのは、公爵家の料理人たちがここぞとばかりに腕を振るった料理の数々である。それに舌鼓を打ちつつ列席者たちが談笑を始め、姉夫婦も両親も挨拶に追われている時――、ショコラはグゼレス侯爵を遠巻きに見張っていたのだった。
この頃になると、開き直った令嬢たちが目当てのグゼレス侯爵に寄って集っていたので、混雑した中でも彼の姿を見つけやすかった。やはり便利な特性である。それに、あんな状態ではフィナンシェに近付くのも至難の業と思われ、ショコラは心の中で取り巻いている彼女たちに感謝していたくらいだった。
そんな時、ショコラに声を掛けて来た者がいた。
「あっあの、ショコラ様…ですよね?」
その声に彼女は振り返った。
「はい?そうですが……」
「あの、ぼ…私は……」
そこには、緊張した面持ちの見知らぬ青年がいた。ショコラは何だろうと不思議に思ったが、すぐに思い当たった。
「ああ!お姉様にご挨拶なさいたいのですね!ええと……あ、今は人が多いようですわ。もう少ししたらお時間が取れると思いますから、あと少しだけ、お待ちくださいね。」
ショコラはそう言うと、にっこりと笑った。そしてグゼレス侯爵の“塊”がいた方向に再び目を向けたが、さっきの場所にはもう、それらしき人影は無くなっていた。焦ったショコラは、広い会場を探す羽目になってしまった。
「それでは、失礼いたします!」
声を掛けて来た青年にぺこりとお辞儀をすると、彼女は急いでその場を立ち去った。
「いや、あの、僕は……」
彼はショコラの背中に向かって手を伸ばしたが、彼女はすぐに人混みに消えて見えなくなってしまった。
残された青年は立ちつくした。そして、とぼとぼと元居た場所に戻って行く。
「あら?もう戻っていらしたの⁇」
品の良い令嬢が、その姿を見付け驚いたように声を掛けた。彼はしょんぼりとしながら答えた。
「……お忙しそうだったから……。」
それを聞いた令嬢は、呆れながら声を荒らげた。
「それでめげてしまったの?もう!本当にだらしないわねえ、サヴァラン!いいですわ。わたくしがあの方を呼び止めて差し上げる!」
「!い、いいよ、ミル。」
ミルフォイユは勇んで歩き出そうとしたが、その時足がもつれてふらりとよろけてしまった。サヴァランは彼女を受け止めた。
「ああほら。人酔いしたんだよ、ミル。少し休んでいよう?」
気を遣ってそう言うと、ミルフォイユはキッと彼を睨んだ。
「大丈夫ですわ。馬鹿にしないで頂戴。わたくしだって、夜会に出られるくらいは丈夫になりましたのよ!」
「分かった、分かったから……」
プンプンと怒る彼女を連れ、二人は会場の隅にある椅子のところへと移動して行った。
一方。人混みの中を、ショコラはグゼレス侯爵を探して歩き回っていた。あんなに目立つと思っていたのに、この人の多さではさすがに簡単には見付けられなくなっている。あっちへこっちへと、うろうろキョロキョロ……。
そんなショコラの様子を、ファリヌは怪訝な表情で見ていた。そして侍女のミエルを呼び止めた。
「ミエルさん、ちょっと。」
「はい?何でしょう。」
「ショコラお嬢様はここ最近、一体何をなさっておいでなのですか?」
彼は眉間に皺を寄せて尋ねた。
「ああ……グゼレス侯爵様から、フィナンシェ様をお守りすると張り切っていらっしゃるんですよ。」
「あの方はまたそんな事を…。」
ファリヌは頭を押さえ、大きな溜息を吐いた。そしてすぐさまショコラを追った。
「…ショコラお嬢様!少々よろしいですか。」
「ファリヌ?ごめんなさい、今はちょっと忙しくて…」
「お嬢様!」
何かに気を取られ、こちらをろくに見もせず生返事をしている彼女に、ファリヌは大きな声を出した。その圧に、ショコラは思わず足を止めた。そして振り返った。
「今なさっているそれは、お楽しいですか?」
「え……」
ファリヌはいつもよりも一層怖い顔をしている。それに、そんな事を聞かれるとは考えもしていなかったショコラは、思わずポカンとした。
……“楽しいか”……。まさか。こんな事、楽しくてやっているわけではない。
口籠ってしまったショコラに、ファリヌは重ねて問い掛けた。
「お姉様の大事な晴れの席で、そんな険しいお顔になるような事を……。一体何をなさっていらっしゃるのですか!」
ピシャリと叱られたショコラは、少しうつむいた。
「でも…」
「でもではありません。侯爵様が何をなさろうと、ご夫妻の事はご夫妻に任せなさい。貴女の出る幕ではありません。」
…………それは、確かにそうだ。それでも、ショコラは二人の事が心配で堪らなかった……。
「明日から、オードゥヴィ家のお子様は、“貴女しか”いなくなってしまうのですよ。もっと他に、すべき事があるはずです。」
…………そうだった。まだしばらくはこの屋敷内にいるとは言っても、姉は余所の家の人間になってしまうのだ。いや明日からと言わず、今日からもう、姉はオードゥヴィ公爵家の令嬢ではなくなった。
それなのに、自分はここ数日、一体何をしていたのだろうか……。大事な時間を無駄な事に使ってしまったのではないだろうか……?もっと、姉の側にいれば良かったのに――…
ショコラは、急にそんな焦燥感に襲われた。
「……そうね。ごめんなさい、ファリヌ……。」
「まだ、時間はありますよ。――それに、楽しくない事をなさるなんて、貴女らしくもない。ショコラお嬢様は、楽しいと思う事をなさっていればそれで良いのです。今はご自身を見失っておられる。もっと心に余裕をお持ちなさい。」
その時彼女はハッとした。
自分らしくない……。――そうか、ここしばらくずっと心苦しかったのは、“そう”だったからなのだ!
「そう……そうね!さすがは公爵家の未来の執事だわ。私、何だか目が覚めたようよ!」
ショコラは久々に晴ればれとした気分になり、元気が出て来た。心なしか、ファリヌの表情も柔らかくなったような気がする。
「そうですか。それはよろしかったです。」
そうと分かれば、こんなところにいる場合ではない。早く姉のところへ行かなければ。――そういう気持ちで、ショコラは駆け出した。
フィナンシェの事にしたって、ファリヌの言うように信頼する義兄に任せていればいいのだ。“信頼する”と言っても、“信用”し切れていなかったのかもしれない……。それはもうやめようと、その時ショコラは思ったのだった。
「――おい、そんな顔で睨むな。」
グゼレス侯爵ことグラスは、少々不機嫌そうな顔で言った。その隣には弟のグゼレス“子爵”ことソルベがいて、ショコラの代わりに…というわけではないのだが、張り付いて監視をしているのだ。
「兄さんが何か仕出かさないように、父上からよーく言い付かっているからね。」
「……それではまるで危険人物ではないか……」
“危険人物のようだ”と兄は言ったが、自分から見れば、正直今の兄は“危険人物そのもの”であると弟は思っていた。いざという時には体を張ってでも止めなければという覚悟の下、今日はここへ来ているのだ。――そんなソルベは、ふと気付いた。
「そういえば、少し前まで殺気じみた視線を感じていたんだけど……」
「ああ。それはたぶん、フィナンシェ嬢の妹君ではないかな。」
あまりにもさらりと答えるので、一瞬聞き流してしまいそうになった。が、ソルベはカッと目を見開いて青くなった。
「!?ちょっと兄さん⁉何したの……本当、勘弁してくれよ……」
弟は頭を抱えた。まさか、すでに何かしらを起こしていた後だったとは……!!
「む。彼女には何もしていないよ。」
「彼女にはじゃなくて、全部ダメだからね⁉ぜ ん ぶ‼」
「…そう心配しなくても、ここでは何もしない。」
顔面蒼白になったソルベは、固まりながらも頭を巡らせた。
……“ここでは”という事は、兄はまだフィナンシェの事を諦めていないのか?まだ何かしようと思っているのか⁇、と……。弟の気苦労は絶えそうにない。
そんなソルベの気を知ってか知らずか、グラスは遠目で静かに「三人」の事を眺めていた。フィナンシェとクレムに、ショコラ……。何とも仲睦まじい様子だ。
『………ずいぶんと、懐に入っているようだな……』
それを見ながら、彼も何か考えを巡らせていたのだった。
「――あ!そういえばお前、外では“兄上”と呼べと言ってるだろう。」
「……そんな事、どうでもいいぃ〰〰〰!!!」