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北川は私の初めての恋人だった。大学一年の夏休み、ある出来事をきっかけに、彼と付き合い出すようになった。
その頃の私は、先輩の紹介で、印刷会社のデザイン室でアルバイトをしていた。内容は雑務が大半で、気楽に働いていた。
そんなある日のこと、デザイン室に出入りしているフリーカメラマン、須藤さおりからあるお願いをされた。被写体になってほしいというものだった。近々開かれるある神社の祭りで写真を撮る予定があり、モデルを引き受けてくれる人を探しているのだと言う。さおりは通常の仕事の他に写真素材の提供もしている。そのための撮影のようだった。
『アルバイト代は出せない代わりに、ご飯ごちそうするからお願い』
それにつられたわけではなかったが、その日は特に予定がなかったし、普段から私を可愛がってくれているさおりからのお願いだ。断る理由はなく、二つ返事で引き受けた。
浴衣で来てほしいと言われていたため、当日は実家から持ってきていた浴衣を身に着けた。髪は自分でそれらしく結い上げ、履きなれない下駄を履き、バスに乗って神社に向かった。
『北川君にも来てもらうことになってるから』
さおりの言葉を思い出してどきどきする。
北川拓真は私より三歳年上の他大学の学生で、デザイン室で働くアルバイトの先輩だ。新人の私は、アルバイト歴の長い彼から色々と教えてもらった。それは三か月ほどたった今も変わらず、一緒に仕事をする機会が多い。
ある時私は、彼を好きになっていることに気がついた。彼女がいるかどうかは分からなかったが、例え彼女がいたとしても、その想いをすぐに捨てることもできなかった。とは言え、容姿端麗という表現がぴったりの彼と自分が釣り合うとは思えなかったから、その恋心は心の奥底に仕舞いこんだ。
それでもやっぱり北川に会えると思うと、仕事のようなものだと分かってはいても、ときめく心は抑えられない。
約束の時間が迫り、私はスマホを手にしながら、待ち合わせ場所に指定された鳥居の傍まで歩いて行く。足を止めて、そわそわしながら首を伸ばし、周囲を見渡す。その時スマホが鳴った。さおりからの電話だった。
「もしもし。鳥居の所に着きました」
――あ、碧ちゃん……。ごめん……本当に申し訳ない……。
苦しそうなガラガラ声が聞こえた。
「え、さおりさん、どうしました?なんか、すごい声なんだけど」
――実は風邪ひいちゃって。熱も高くてさっき少し下がって、やっと起き上がれたの。ほんとに申し訳ないんだけど、今日は中止にさせてください……。ゴホッ、ゴホッ!
電話の向こうでさおりが激しく咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか?中止の件は分かりました。こっちは心配しないでください。このことは、北川さんにもちゃんと伝えますから。とにかくお大事に。早く治してくださいね」
――ほんとに、ごめん。この埋め合わせは必ずするから。ゴホッ……。
「もういいですから。電話切りますね」
これ以上話し続けるのは辛そうだと思い、私はそそくさと電話を切った。仕方のないこととはいえ、せっかくの浴衣なのにとため息がもれる。
彼が来たら、少しくらい一緒にお祭りを見て回れないだろうかと、願望めいた考えが頭に浮かんだ。しかし、すぐに頭の中から追い払う。彼女がいるからごめん、などと言われたら、元から自分が選ばれることがないと分かってはいても、心にダメージを受けそうだ。次回から平気な顔をしてアルバイトに行く自信がない。
「そういえば、北川さんの連絡先、知らないんだった。でも、もうこの辺まで来てるはずよね。とりあえず待つしかないか」
ひとり言をつぶやきながら、彼の姿を探して辺りに目をやる。すると、私が今いる鳥居まで一直線に向かってくる人物がいた。北川だった。
「北川さん!」
私は大きく手を振りながら、彼の元まで足早に近づいていく。
「こんばんは」
私を見た彼は驚いた顔をしている。
「あ、えぇと、笹本さん?ごめん、ちょっと遅くなってしまって。あれ?さおりさんはまだ来ていないの?」
屋台や提灯の灯りがまぶしいのか、北川は目を細めている。
「実はさっき、さおりさんから連絡があって。体調が悪くて動けなくて、今日の撮影は中止させてほしいってことなんです」
「えっ、そうなんだ。具合が悪いなら仕方ないよね。だいぶひどそうだった?」
「熱は少し下がったって言ってましたけど、咳がつらそうでした」
「夏風邪でも引いたのかな。旦那さんもいるから大丈夫だろうけど。じゃあ、どうしようか……」
「せっかく来てもらったのに、なんだかすみません」
「別に笹本さんが謝ることじゃないでしょ」
北川は微笑み、私に視線を当てる。
「その浴衣姿はやっぱりさおりさんの指示?」
「はい。そういう写真を撮りたいから、って。そう言えば、北川さんもですね」
アルバイト先で見ている普段の姿とは違う新鮮さに、胸が高鳴る。
「俺も浴衣で来いって言われてたからね。……あのさ、せっかくここまでして来てるわけだし、笹本さんさえ良ければだけど、お祭り、見て行かない?このまま帰るのはもったいないでしょ」
「私とですか?でも、彼女さんに悪いですから……」
気を遣ったつもりだった。
しかし彼の顔に苦笑が浮かぶ。
「彼女はいない。だから気にしなくていいよ」
「そうなんですか……?」
微かな希望が生まれる。しかし彼が私を見てくれるわけがないと、その希望を頭の中から追い払う。
この時生まれたわずかな沈黙を、私が困っているせいだと解釈したらしく、北川は申し訳なさそうな顔をする。
「そうだよな。笹本さんには彼氏がいるよね。困らせるようなことを言ってごめん」
しかし私は彼の言葉を勢いよく否定する。
「いえ、いません。あの、今までずっとです」
「そうなんだ……ずっと……」
北川は困惑顔でつぶやいたきり、黙りこんでしまった。
そんなに強調して言うことではなかったと、恥ずかしくなる。北川の顔を見ることができずうつむいていると、砂利を踏む音がした。おずおずと顔を上げたそこに彼がいた。悪戯っぽい目をして私を見ている。
「そんなら、一緒に遊んでも問題ないってことだね」
北川の手が私の前に差し出される。
「はぐれないように、手、つないでいい?」
「は、はい……」
どきどきしながら彼の手に触れる。つないだ手からも伝わってしまうのではないかと思うほど、鼓動がうるさい。
「行ってみよう」
北川は私の手を軽く握り、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。