海岸に立つ結衣は、波の冷たさに足首を押されながらも、前へ前へと進んだ。遠くに揺れる小さな人影——あれは、確かに花の背中に見えた。
光に淡く反射する濡れた髪。
息が詰まるほど美しい姿。
「花……?」
声を張り上げる。
でも波がすべてを飲み込み、声はすぐにかき消される。
結衣は躊躇わず、砂を蹴って海へ入った。
水が冷たくて、体が固まる。
でも止まれない。
花を止めるのは、今しかない。
花が“終わらせたいこと”を実行する前に、絶対に止めなければ。
水面に浮かぶ影を追いかけながら、結衣は思う。
どうして、花はこんなにも強く、自分を遠ざけるんだろう。
それでも、花はひとりで終わりに行こうとしている。
「花……待って!」
結衣は手を伸ばす。
しかし花は振り返らない。
ゆっくりと、しかし確実に、沖のほうへ向かって歩いていく。
結衣は心臓が痛くなるのを感じながら、追いかける。
波は深くて冷たい。
水面が揺れるたび、花の姿も揺れる。
まるで手の届かない幻のようだ。
「お願い……戻ってきて……!」
叫びながら、結衣は花の手首に届く距離まで近づいた。
そのとき、花がゆっくり振り返った。
目が合う。
柔らかく、悲しみを含んだ目。
でもその瞳の奥に、迷いや躊躇はなかった。
「結衣……ありがとね。
でも、もう大丈夫だから」
結衣は涙をこらえ、声が震える。
「大丈夫って……どうして……?
こんなの……私が大丈夫じゃない……!」
花は微笑んだ。
優しく、悲しいほど穏やかに。
「うち、終わらせるの。
もう迷わなくていい。
結衣のことも、置いていくのも苦しくな い。
全部、これで終わりにできるから。」
結衣の手が届きそうで届かない。
海が二人の間に深い線を引いている。
結衣は叫んだ。
「花……お願い……私に……!」
しかし、花はもう振り返らなかった。
胸の奥で結衣の叫びを感じながら、波の中へ一歩ずつ進む。
そして、朝日の光に照らされ、波が静かに花を包み込む。
結衣は海に飛び込むこともできず、岸辺に立ち尽くした。
水が光を揺らす。
花の存在は、波に吸い込まれるように消えていった。
ただ一つ残ったのは、手首に巻いたヘアゴムだけ。
花の温度はもうどこにもない。
でも、確かに花はここにいた——
最後の笑顔のまま、結衣の世界から消えた。
結衣は膝をつき、波打ち際の砂に手をついた。
涙が海水と混ざって、頬を流れる。
声はもう、何も出ない。
ただ胸の奥で、波の音が花の存在を思い出させる。
「花……」
小さな声が、砂浜に溶けていく。
結衣は、もう何もできないことを知った。
でも、もやもやはなかった。
花が選んだ道を、結衣は理解していたから。
悲しいけれど、もやもやはない。
ただ、痛いだけ。
――静かに、海はすべてを包み込み、何も変わらない朝が訪れた。