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第7話:あなたを殺したのは
地下のラウンジ。外界の音を遮断した室内には、落ち着いたジャズが流れていた。
薄明かりの中で、一人の女性が書類を抱えて座っている。
彼女の名前は今井キリ(いまい・きり)。
30代半ば、肩につくダークブラウンのストレートヘア。
タートルネックに、グレーのジャケット。
濃いめの赤リップが、顔色の落ちた頬を無理やり引き締めている。
左手薬指に指輪があるが、すでにその意味を失って久しい。
「妹が殺されたんです。
加害者は、捕まってはいるけど……私、どうしても“気がすまない”。
納得したいんです、“あいつが何を思ってたか”を」
対面には、イタカ。
この日は、漆黒のシャツにグレイのベスト。
袖をまくった手首には、治りかけの裂傷跡が見える。
髪は後ろで結わず、さらりと肩にかかっている。
「つまり、“妹さんを殺した加害者の心理”を体験し、理解したい。
あるいは、理解して“許さないこと”を自覚したい……ということでしょうか」
キリは、小さくうなずいた。
「そう。理解するためじゃなくて、ちゃんと嫌いになりたいから」
イタカは静かに頷き、黒いファイルを開いた。
契約用紙は深い栗色、端に光沢のない銀文字で「S.P心理逆体験」と印字されている。
彼は指先で、項目を一つひとつ確認しながら説明を始めた。
【代行体験契約書:S.P-1324】
依頼者:今井キリ
対象:今井マオ(故人)の加害者
内容:加害者の視点で再現された犯行時の心理体験
再現要素:
① 事件当日の行動再現
② 動機形成過程の心理パターン構築
③ 衝動、拒絶、後悔、または空虚感の体験
形式:疑似記憶映像+神経負荷ログ+感情断片の記録パック
閲覧:依頼者本人のみ/データ開封制限あり
精神安全措置:記録への“人格影響遮断”設定あり
イタカは説明しながら、何度かキリの表情を見た。
目元の揺れ、指のささくれ、口角のかすかな痙攣――
それらすべてが、“限界ギリギリ”に立っていることを示していた。
「……ご確認を。
この体験は、**“理解するため”ではなく、“感情を深めるため”**に作られています。
ただし、体験後に“気持ちが反転する”ことも、ゼロではありません」
「それでもいい。
一度、見てみないと、私は前に進めない」
イタカは、書類を静かに差し出した。
「では、あなたの代わりに、“あなたの妹を殺した男”になります。
ちゃんと、あなたが嫌悪できるくらい、正確に、感じてきます」
彼は、ほんの一瞬、笑った。
その笑みは、どこか嬉しそうでもあり、**“人の奥底の暗さに触れる”**ことへの快楽がにじんでいた。
数日後――
イタカは、事件が起きた現場周辺に立っていた。
古びたアパート、狭い階段、ゴミの散らばる裏通り。
被疑者の服装、歩き方、嗜好パターン、事件前に見ていた動画履歴まで再現。
行動シナリオが自動で組み立てられ、彼はその“人物そのもの”として動く。
感情抑制を外し、衝動制御を少しだけ甘くする設定に切り替える。
「……動悸、浅い。
手が熱いのに、脳だけがすごく冷えてる。
うん……これは、怒ってないな。“空っぽで、ただ壊したい”ってやつだ」
唇が乾き、視界が一度ぶれて、
次の瞬間、意識は――一線を越えた。
彼の手は、何かを握り、
何かが壊れ、
何かが、もう戻らなくなっていた。
その時、イタカは苦しげに笑った。
「……ああ、これは……最低だ。
でも、すごくよくできた“破壊欲”。
悪意っていうより、“逃げ”の形だな……」
数日後、今井キリの元にデータが届いた。
中には、手触りの違うパックが2種類入っていた。
ひとつは、視点記録映像。
もうひとつは、感情の“断片データ”だけを束ねたグラフィックログ。
その冒頭には、イタカからの手紙。
> あなたの妹さんを殺した男は、“罪を知った者”ではなく、
“何も知らないまま壊した者”でした。
罪悪感は薄く、恐怖は遅れ、後悔はやってこなかった。
でもその空虚さが、ある意味、一番の“罪”です。
嫌ってください。
忘れずにいてください。
あなたが前に進むことが、妹さんにとって唯一の“意味”になるのだと思います。
イタカは、静かな道を歩いていた。
今もどこか、自分の内側に“あの男の破壊衝動”の欠片が残っている気がして、
腕を一度、大きく振った。
「……これは、好きじゃなかったな。
でも、深かった。
“わからなさすぎて痛い”っていうのも、あるんだな」
次の依頼が届く。
彼は、また、違う痛みの中へ向かっていった。