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第8話:経験は消せるか?
薄曇りの午後、ビル街の隙間にある予約制ラウンジ。
人工植物が並び、ガラスの壁越しに時間だけが音もなく流れていた。
ソファに座っていたのは、坂木直人(さかき・なおと)――第1話で登場した依頼者だ。
グレイのジャケットに、シャツの第一ボタンは閉じたまま。
髪は短く整えられ、無精髭は消えていたが、目の下の影はそのままだった。
彼の前に、イタカが静かに腰を下ろす。
今日は、チャコールグレーのニットにジャケット。
前髪は額に下ろし、表情には微笑みも戸惑いもない。
ただ、懐かしさと“確かにあの痛みを引き受けた男”の気配だけが残っていた。
「……久しぶりですね、坂木さん」
「ええ、もう一年以上、経つんですね。
でも、あれ以来、何も変わらなかったんです。
“あなたに体験してもらったあの痛み”が、俺の中にまだ、ある」
坂木は、震える指で封筒から一枚の書類を出した。
「今回は……その記録を、“上書きしてほしい”。
あのときの事故記録、体験、結論。
全部、もっと“やわらかいもの”にしてくれませんか?」
イタカは視線をわずかに動かす。
「……なるほど。
あなたの中では、“他人に委ねたはずの痛み”が、“自分のもの”になってしまった。
それは、とても誠実な反応です。
でも、忘れるには、もう一段階、深い“上書きの痛み”が必要になります」
イタカは、黒革のポートフォリオを開き、
再構成依頼用のファイルをゆっくりと取り出した。
表紙は、前回と異なりやわらかなセピア色、角に「Re-Experience」の印字がある。
「内容をご確認ください。
これは“記録の改変”ではなく、“あなたの記憶に作用する代替感情”を生成する契約です」
【再体験型代行契約書:S.P-1402】
依頼者:坂木直人
対象:第1回依頼(娘の事故)に関する再構成
目的:記憶の感情面の上書きと固定
手法:
① 再現データの反転シミュレーション(生存ルート生成)
② 体験者(イタカ)による“幸せだった可能性”の代行経験
③ 依頼者の記憶同期・疑似体験再移植
出力:
・映像ログ(温度・風・声の追加)
・“もしも”の選択肢ログ
・心拍同期用センサーデータ(希望者限定)
坂木は眉をひそめながらも、真剣に契約書を読み通し、
最後にそっとペンを置いた。
「俺は、本当にそれで救われるんでしょうか?」
イタカは、かすかに笑う。
「……それは、“痛みを引き取った側”としては答えにくいですね。
でも、“あなたが苦しみ続けるために記録を作った”わけじゃありません。
だから、“変えてもいい”と思うなら、それで充分です」
数日後。
イタカは、事故現場と同じ歩道に立っていた。
今度は、“娘が助かった未来”という仮定のもと、記録を始める。
小学生用の服装、同じ時間帯、同じ風。
だが今度は、**イタカは信号を渡らず、父親役として迎えに来ていた。
「……ああ、“間に合った”か」
ランドセルを背負った女の子が、駆けてくる姿を想像しながら、イタカは目を細めた。
「よくある“生き残りの物語”。
でも、その“ありえなかったはずの幸せ”に、どこか痛みが残るんだよな……」
風の中で、彼の表情は“切なさと満足”の中間にあった。
後日、坂木のもとに届いたのは――
温かい色調の記録映像と、
“風や手の温もりを再現する触感シート”。
そしてイタカのコメントが、短く添えられていた。
“本当にあった記憶”ではありません。
でも、“生きるために必要な感情”として、
この記録をあなたが抱いてくれるなら、私はそれで充分です。
イタカは、雨の中を歩いていた。
傘は差さず、顔に冷たい滴を受けながら、何かを思い出すように目を閉じた。
「……あったはずの記憶を、作り直すのも悪くない。
でも、どこかで“ほんとは壊れてる”ことに気づくのも、また、痛くていいな」
小さく笑って、コートの襟を立てた。
次の依頼へ向かう彼の背中は、どこか軽やかで、どこか疲れていた。